新型コロナ肺炎:変化する情報に注意する

経験が常に役立つとは限らない。時には過去の経験が邪魔をして、新しい状況にうまく適応できなくなってしまう時もある。

新型コロナ肺炎に関して、私がまさにその通りなのである。昨年の11月か12月ごろ、中国のウーハンあたりで奇妙な病気が発生しているとの情報をネット上で見た時には、何かその地域限定の風土病あるいは公害ではないかと思った。

ニュースに掲載されていた写真が、何か沼地のようだったので、その印象を強くしたのだろう。しばらくして今度はクルーズ船での感染拡大の話。この時に思ったことは、これはこのクルーズ船だけに関係することであり、自分の生活に影響するまでは予想していなかった。

この時期に多い意見あるいは感想の代表的なものは、インフルエンザとこの新型コロナ肺炎を同じようなものとするものである。

つまり、風邪と同じように3月に入れば自然と収まってくる、そのような考えである。結果論とはなるのだが、本当は2月の前半あたりが最も重要な時期であり、この時期にはっきりとした対策を取らなかったのが、今日の結果となったと言える。風邪と同じだとする、間違った経験が邪魔をしたわけである。

公的機関を含め、その後もこの新型コロナ肺炎に関しては様々な情報が発信されている。確かにそれらの情報はその時点では正しいのかもしれないが、事例が重なってくると、いくつかの情報は間違いだった例が続いている。

例えば、若年層には新型コロナ肺炎は感染しない、あるいは感染しても軽い症状などだ。確かに老年層では感染するとひどい症状になることは確認されているのだが、これは他の感染症と同じであり、新型コロナ肺炎特有のものではない。この老人層が過度に強調された結果、逆に若年層には被害が少ないとの印象を与えてしまったわけである。

ある意味この間違った認識が、現実生活でどのような影響を与えているのか。全国一斉休校の際には、公園なんかも閑散としたものであった。子供たちが外出も控えていたからだが、今はどうであろうか。行き場を失った子供たちで、公園などは随分な人混みである。

活動するにしても、人と人との間隔を少なくとも1メートル以上することが推奨されている現在、異常な光景であることは間違いない。若年層安全神話が大きな影響を与えているのだろう。

某都知事のオリンピック強行開催論にしてもそうだ。2月の時点ならば、まあこのような発言も許された。新型コロナ肺炎の感染地帯も限られていたことだし。しかし現在のような状況でもこのような発言を続けているのは、ある意味犯罪的な行為である。なぜか。オリンピックが何か感染を防ぐ魔法の杖のように感じている人が多いからだ。

その例もあげてみよう。オリンピック復興の灯火イベントである。このイベントの運営者は広告代理店かイベント会社であろう。この種のイベントの会場設定では、より混雑しているように見せるのが設計の基本である。イベントが随分と盛り上がっているようにとの演出である。

実際に開催してみるとどうであろうか。まさに混雑状況が実現したわけである。オリンピック利益者たちの狙い通りに。開催を強行した是非についてはここでは論じない。それよりも、参加した人たちの考えはどうか、である。

今のご時世、人混みの危険性を認識していない人はいないであろう。復興の灯火を見物することと、混雑に巻き込まれる危険性を天秤にかけた場合、私ならば、行くことはない。しかし、オリンピック=安全という盲信があれば、自分だってどうなるかはわからない。行くかもしれない。オリンピックに関係することは、新型コロナ肺炎に打ち勝つことなのだから。そのように思って。

以上は本の少しの例にしか過ぎない。一時の情報が、事態が変化した後も生き続けてしまうこと。よっぽど注意しないと、この危険な罠にハマってしまうことは、自分にも予想できる。どうするか。いつも言っているように、その情報の本を自分で確認する、これぐらいしか脱出する方法はないであろう。

オリンピック、オリンピックと騒ぐのはやめて欲しい。

殊更危機を煽るわけでもないのだが、新型コロナの流行がこの先どのようになるのか、世界中の人が不安に思っている。感染ばかりではなく同時に経済活動がどうなるのか。不安を抱えながら多くの人たちが生きているわけだ。私にしてもそうだ。仕事がどうなるのか、収入はどうなるのか。明日からどのように暮らしていけば良いのかまで、追い込まれている。

どころがどうだろうか、オリンピック関係の連中とは。人々のそんな苦しみに思いをはせるわけでもなく、ただオリンピックがやりたい、やりたいと自分のこどだけ優先で連日騒いでいる。

まあいいだろう。損得勘定でオリンピック関係者が発言しているわけだから。しかし、日本国民全員が、色々な人の困っている現状も考えずに、ただただ自分のためだけで発言しているように思われてしまうのは、少なくと私としては勘弁して欲しいところだ。

人々に勇気と希望を与える。

随分と傲慢な考えではないか。お前らにことさら与えられなくても、人それぞれが勇気と希望そして時には悲しみを持って日々生活しているのだ。

お前らなどに国民代表を頼んだわけでもない。だから発言するときは、必ず主語を明確にして自分の考えであることを明示して欲しいものだ。間違っても、国民はなど一般を代表するような言葉は使って欲しくない。国民、非国民、戦時中の話でもあるまいに。

オリンピック、オリンピックと自分の利益だけを考えて主張している自分勝手な日本。すでにそんな評価が定着しつつあるこの状況を、理解できないのだろうか。これから先、日本非難が世界中でまきおこったとしても、それは自分の責任だと言えるのか。そんな覚悟もなく、馬鹿みたいな発言を繰り返すのは、とんでもない話である。

こんな時だから始めたいこと

呑気なことを言っていられない人も多いだろうが、どうせ遠くに行くことができないならば、この機会に近所の風景を楽しんだらどうであろうか。

私自身も会社勤めをしていた時には、住んでいるところがどのようなところかもよくわからなかった。家と会社の往復だけだったから。

思い出す風景が通勤風景だけだったとしたら、随分と殺風景な人生かもしれない。

 

新型コロナの社会で生きるために

新型コロナと一口に言っても、自然条件や対策により様々な感染パターンがあることがわかってきている。主要なものは以下のものである。

・急速に拡大し急速に収束するもの
・急速に拡大しその勢いを止めるのが難しくなっている状況
・感染が広い範囲に拡大し、それぞれの地域での感染が急速に拡大している
・広い範囲に拡大しているが、それぞれの地域でそれほど感染は拡大していない

具体的なところでは、最初のパターンは、中国あるいは韓国。次のパターンはヨーロッパで3番目が米国。最後が日本である。

それぞれのパターンで社会的な変動も異なり、それぞれの社会で自分たちなりの生き方を模索していかなければならない時期となっている。

中国では帰国者をのぞけば、新たな感染者は0を実現した。多大な犠牲を払ってのことであり、社会安定をこれからどのようにして構築していくかが、課題となるだろう。

過去のデータがどのくらい役立つのかは不明だが、感染病の場合は、感染者が急速に増えてピークに達するとそのあとは急速に感染者数が減っていく。中国が良い例である。一方、感染者が急激に増加しないパターン、つまりは日本なのであるが、こちらになると、感染する危険性のある期間は長くなることになる。つまりは、いつ終わったのかわかりにくいところがあるわけだ。

日本のような場合の社会はどのようになるのであろうか。奇妙な言い方ではあるが、新型コロナと共存する社会と言うことになるであろう。新型コロナに対しての恐怖心を抱きながらも通常の生活をしていく、そのような社会である。

ではこのような社会の課題とはどのようなものだろうか。私は2つのことが重要であると考える。一つは情報の伝え方。もう一つは私たちの心理状態をいかにコントロールするかである。一つ一つをより詳しく検討してみよう。

情報の伝え方:

マスクやトイレットペーパーの買い占めでわかるように、情報の伝え方を間違うと、不安的な社会では人々のとんでもない行動を誘発することになる。ワイドショーなどで所謂専門家と呼ばれる人たちが発言する内容も、正直なところ、そこいらの人が言っていることと大差はない。もしかしたら急激に感染者数が増える恐れがあるなどだ。恐れがないとは言えないが、テレビ局の意向に迎合しただけの発言であり、単に人々の不安を煽るだけのものである。

マスコミ全般に言えることは、彼らの伝える情報はとてつもなく偏っていることだ。具体的な例をあげてみよう。この前の日銀総裁の会見場面である。

経済素人の私には会見の内容自体について語れることはない。ただ面白いと思ったのは、メディアのカメラシャッター音である。最初は何気なく聴いたいただけだったのだが、そのうちあるパターンに気がついて。どのような場面でカメラのシャッターがきられのか。そのパターンを知ってから、ほぼ100%でシャッターがきられるかを予想することができるようになった。

実に簡単なパターン。それは総裁が手をあげたりなど、派手なポーズをした時なのである。しかしこの会見の全体的な雰囲気としてはどうなのであろうか。随分と慎重だなが、私の感想である。日頃はすでに自分の頭の中でこなれていることを自由闊達に話すのに、この会見では、書類に目をやりながら、その書類を読んでいるような姿が目立ったのである。

メディアに掲載されるのは、当然のごとく手を振り上げたりなどの場面だ。この情報だけを見た人は、日銀が積極的な動きを見せたと感じるだろう。しかし実際はどうか。

株式投資をしている人などは、この会見全部を見ているだろうから、この日銀の政策に対して株式市場ではそれほどの反応を見せることがなかった。当然であろう。果たしてこの政策で効果をあげることができるのかどうか、日銀がそれほどの自信を持っていない、そのように判断し、株の買い注文とはならなかったわけである。

メディアがこのような情報の発信を続けていると、社会状況がより困難になった時、情報統制をよしとする人たちが増える可能性も十分に考えられる。それがどのような社会となるのか。メディアは改めて自分たちの役割を再考すべき時になっているのではないか。

→自分がとっている対策は、信頼できるメディアを確保しておくことである。個人的な好みであるが、現在は

The Guardian
https://www.theguardian.com/

である。

危機に対しての自分の行動:

新型コロナに対しての1番の安全策は、自分の部屋に一人で閉じこもっていることだ。しかし、それでは同時に社会が死ぬことであり、結局は最も安全でない策でもある。危険を認識しながらも通常の社会生活を送る必要がある。もちろんこれまでの社会生活と同じと言うわけにはいかないが。

行動と同時に、自分の考え方や感じ方も変えていく必要がある。ではどのような方向へ変えていくのか。先に書いたThe Guardianに役立つ記事があったので、その概略をここで取り上げてみることにする。

https://www.theguardian.com/us-news/2020/mar/19/coronavirus-anxiety-mental-health-wellbeing

興味のある人は各自で読んで欲しいところだが、基本の考えとして以下のものである。

→不安、心配をまずはそれとして認識すること
これとは真逆な態度が米国の札である。なぜ米国には新型コロナの感染者が中国がえりの一人以外はいないと言ったのだろうか。実際はわざと調査をしないだけだったのに。まさに不安や心配から逃れるために、現実を見ないことにしたわけである。そしてこのような態度がどのような結果となってしまうのか。

テレビを一日中見ていたり、何かを食べ続けていたりあるいは酒を飲んだくれていたり。このような現実逃避的な態度では、まず自分自身がダメになってしまうのである。

→現実と不安を混同しないこと
メーカーや販売店がどんなにトイレットペーパーが山積みされた写真を公開しても、トイレットペーパーの買い占めはいまだ続いている。なぜなのか。それは、不安と現実とを混同してしまうからだ。人のことは言えない。自分だってそうだ。

先に書いたように、まずは自分が持っている不安を直視し、次に必要なのは自分の不安の実態を自分で客観視することである。世の中には必ず人の不安を煽る奴が出てくる。その不安に駆られて盲目的に行動するのではなく、その不安の元となっている現実は何か。日頃から落ち着いて考える訓練をしていく必要があるだろう。

→具体的な方策は基本の考えを理解することから始める
このような現状となると、色々なハウツー的な記事が出回ってくる。善意から出ている行為であることは確かなのだが、先に書いた2つの全体条件がないと、逆効果になる場合もある。何をやっても不安が解消しないので、結局は不安から目をそらすようになってしまう、などだ。色々な対処方法を試す際には、この2つのことを念頭に置きながら実行するのが良いのではないか、

と私は思う。

 

素人が考える新型コロナ対策

素人が新型コロナ対策について考えても意味はないだろう。そんな意見もあるだろうが、果たしてそうであろうか。専門家の知見を尊重しないわけではない。しかし、ネットなどから聞こえてくる、昼ワイドショーでのいわゆる専門家の話から判断する限りでは、その発言を鵜呑みにするのも、随分と危険だと、私は思う。

つまりは、なるほどその分野の知識は豊富かもしれないが、その判断力や分析力に関しては、我々とそれほど変わらないこと。あるいは、ひどい場合にはトイレットペーパーを買い漁っている人と同じような考えを表明している場合もある。

何しろ新型コロナは未知のものであり、関係する情報も刻々と変化している。あんなにテレビなどに出ていては、自分自身で研究し考える時間があるのだろうか。単に昔の知識からの思いつきを発言しているのではないのか。

今の世の中は何事も自分で考え自分で判断することが大切である。昔のように一部の専門家だけに知識が独占されているわけでもないのだから。

さて前置きが長くなった。世界中で行われている多様な新型コロナ対策について、自分なりに考えていることをここでまとめておくことにする。最初に断っておくが、これはあくまでも自分の考えであり、正しいかどうかはまた別のことである。

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-51894727

BBCニュースサイトに掲載されている、感染拡大のモデル図である。他でもよくみる図である。どれもが、基本となるモデルを参考にして作っているからだ。20世紀初等のスペイン風邪の米国での2つの都市での感染具合の比較図である。

図の説明にある通り、パターンの違いは対策のあるなしである。非常にわかりやすい図で、だから対策が必要だと言う話でよく使われる。

しかしわかりやすさが逆に真実を覆い隠す場合も多い。端的な例が地動説だ。古来より天が動くと人々は考えていた。天動説だ。太陽は東から上り西に落ちるている、当たり前の事実のように思える。

この図をこれまでの事例で検討してみよう。これまでの事例としては、中国、韓国、そして日本。ヨーロッパ諸国や米国については、その後で検討してみることにする。

韓国についてはまだ事態は流動的で断言はできないが、現時点では中国も韓国も急激なカーブのパターンである。ただ注意しなければ、無為無策だからこのパターンになったのではない。特定の感染地域を隔離すると、このパターンが発生したのである。乗客船の例でもこのことは理解できるだろう。

もう一つ重要な点は、その隔離した場所がどこか、と言うことである。ウーハンとその周辺地域と大邱は大きな都市には違いないのだが、その国中心都市ではない。現地では当初はパニック状態になったであろうが、周辺地域からの医療援助が充実していたのか、ピークをなんとかやり過ごして、今では収束あるいは収束に近い状態となっている。

周辺地域からの医療援助などが充実していたことについては、韓国での死亡率の低さでもそのことはわかるであろう。

では日本の場合はどうであろうか。感染者総体の数は増えているが、特定の地域での爆発的な感染者数増加は起こっていない。北海道が最初は多いように見えたが、今ではそれほどでもない。感染者が各地に散らばっている。中国や韓国と全く異なるところである。

なぜこのような状況となっているのか。別段日本の対策が充実したとは言えないであろう。言いたい人も多いだろうが。それよりも、地域的あるいは環境的な要素が強いのではないのか。これについてはまた別の国との比較で検討してみる。

そもそも感染が急拡大する地域とはどのようなものなのだろうか。共通点があるのだろうか。感染が急拡大した主な地域は以下のものである。

中国:ウーハン周辺
韓国:大邱周辺
イラン:テヘラン周辺
イタリア:ミラノ周辺

私の見た目の印象にしか過ぎないのだが、どれも内陸部の大都市である。なぜ上海ではなくウーハンなのか。なぜ、釜山ではなく大邱なのか。あるいはなぜローマではなくミラノなのか。

現在では、新型コロナの感染中心地はヨーロッパになってしまった感がある。残念なことではあるが、ヨーロッパでは内陸部に中心的な都市が多い。こんなことも感染の急拡大に関係しているのではないだろうか。原因は私にはわからないのだが。

現在の1番の注目点はやはり米国の感染状況であろう。今までは情報操作を行っていてその実態が明らかとなっていなかったのだが、かなり状況は厳しいようだ。

現在のところ、感染が多いのは西海岸と東海岸地帯である。私が懸念しているのは、これらの地域ではない。米国も内陸部にも大都市がある国である。これら内陸部での感染具合が気になるところなのである。

これまでの例で見てきたように、内陸部の大都市では感染が急拡大する傾向がある。その理由はわからないのだが。米国でも同じことが起こる可能性がある。この時に問題となるのは、少数の都市で起こるのかあるいは同時多発的に多くの都市で爆発的な感染が起こるかである。

どのようになるのかはわからない。少数の場合ならば、中国あるいは韓国的な対処が可能だが、同時多発的だと、どうなるかはわからない。後2、3週間でその行方はわかるだろう。

さて、話は戻って日本である。現在のところ爆発的な感染の広がりはない。これまで記録した1日での感染者数は最高でも60名程度である。しかも右肩上がりでもなく、多い日と少ない日が混在している状態だ。

この状態が良いのかどうかは、簡単には判断できない。先に掲載した図でもわかるように、感染者数が劇的に増加しない場合は、感染状況が長期間続くことになる。中国がすでに平常の活動に戻ることとなっているわけだが、日本ではそのようには行かない。

いつ終わるかもしれない、人々が不安に思う状況。これが長く続くことになるわけだが、他の国では例がないことなので、私たち自身が解決方法を考える必要があるのだ。

危険な状況でも、平常の活動ができるのかどうか。そのためには何をすべきであり、また私たちはどのように考えて活動すれば良いのか。

これはすでに専門家頼みの話ではなく、私たち自身で解決しなければならないことなのである。ワイドショーの所謂専門家などが答えることができない問題なのである。

素人が余計なことを言うな。その考え方自体が今では危険思想とも言えるだろう。

新型コロナ語録:こう言えば良かったのだ

お前らのようなヘイト主義者がこの社会を撹乱し、

お前のようなチキンな差別主義者が、この世界の希望を奪った。

真実を覆い隠す人間は、

私の敵だ。

自分だったらこのように発言するだろう。

Twitterみたいな無責任極まりない匿名性のシステムなど使うわけはないのだが。

会見を仕切っているものたちが、果たして真実を伝えているのか。大いに疑問ではあるが。ポーズだけの反権力。

 

情報被害を防ぐためには?

マスク不足をいまだに中国人に買い占めだと主張している人たちがいるのだが、実情はどうだろうか。アマゾンなどに高額出品している連中は、多分ほとんどが日本人なのではないか。何かあるとすぐに他国人のせいにするのはやめにしなければならない。振り込め詐欺だってそうだ。犯人は日本人だろう。

今度の新型肺炎で一番怖いのは、病気そのものではない。それよりも上記のような通念に頭をやられている人間たちが起こす行動である。

最近の事件や事故などでは、犯人特定みたいなことを自慢げに行っている連中が多い。短絡的思考の持ち主なのだろうか、名前が同じだけで犯人扱いされたりなどの被害も続出している。これら連中のたちの悪いのは、間違いが明らかになった場合でも謝るわけでもなく平気の平左なのである。

新型肺炎でも同じことが起こるだろう。あるいはもう起こっているのかもしれない。感染者を特定し、その家族までも含めて、社会の敵などと風聴するものである。外国人に向けられていた敵意が今度は感染者に向けられるわけだ。

空気感染ということで、感染者が息をするだけで病気がうつると思っている人が多い。しかし本当のところはそうではない。感染者の咳やくしゃみで外に飛び散る体液に病原菌が潜んでおり、他の人がその体液に触れた手で目や鼻あるいは口に触ることで病気に感染するのである。

今では特別な人など存在しない。ネットなどで感染者を非難している人間自体が感染者である可能性も大きのである。であるから、まずは咳やくしゃみを撒き散らさないように各人が注意すること。また不特定多数の人が触る可能性があるもの、例えば電車のつり革などに触らないようにすること。もちろん外出先から戻った時の手洗いの徹底なども必要である。

政府の対策などあてにもならない現在は、まずは自分自身で自分を守ることに注力するのが、最善の方法なのである。

裂け目が目立つ今日この頃

著名な歴史学者であるダイヤモンド氏のUpheavalという本を読んでいる。邦訳は危機と人類となっているのだが、誤訳とまでは言わないが、かなり誤解を招くようなタイトルである。この本の中身としては社会あるいは国家が危機に遭遇した時にどのように対処したのかを、いくつかの具体的な例で語るものである。

最近は外国の本で日本を扱うものは少ないのだが、この本ではある意味異例ともいうべき分量が割り当てられている。ちょっとしたパレードが外国メディアに取り上げられただけで大騒ぎするこの国のメディアであるが、この本について取り上げているメディアは少ないような気がする。

まあその理由はよくわかる。この国にとってはかなり耳の痛いことが書かれているからだ。そしてこのような耳の痛い話を無視することが、結局のところ世界中から笑い者となっている新型肺炎の対処にも繋がって言えるだろう。

この本の内容自体についてはまた別の機会に取り上げてみたいのだが、今回はこの本の分析を参考にしながら、新型肺炎対策について自分なりの考えをまとめてみようと思う。

先にこの本では日本について異例の分量が割かれている。その理由は日本については2つの時代のことが取り上げられているからだ。一つは明治維新。もう一つは日中戦争から現在までの日本である。

ダイヤモンド氏の評価はこの2つの時代で全く異なっている。簡単に言えば、明治維新は高評価であり、現在時点での日本については否定的である。メディアでこの本が取り上げられる機会が少ないのは、この後者の否定的な考えが、マスコミ連中の反感を買っているからだろう。

ただ面白いのは、否定的な見解の基本となっているのが、現実に目を向けない現在の日本のあり方であって、マスコミからの不評判はまさにこの見解の正しさを証明していることである。真実を軽視し詭弁がまかり通っている、その象徴だ。

さて新型肺炎の話だ。某国策放送会社を先頭にしてメディアからは真実を伝えるという基本が消滅しまった。私が実感していることだ。そして目立つのが独善的な考え方である。事実関係だけを述べれば良いのに、そこに自分たちの勝手な考えを忍び込ませているのだ。どうせお前たちには賢明な判断ができないのだから、私たちがその代わりにやってやるよ。そんなことである。

もうマスコミ解釈はたくさんである。一例をあげてみる。最近の世論調査である。日経グループが行った世論調査だ。

内閣支持:46%
内閣不支持:47%

世論調査も調査をした主体によって数字が大きく異なるのが現状である。この数字が現在に状況を正しく反映しているとは言えないのは確かだ。しかし私たちの考え方の参考にはなる数字である。

私が欲しいのはこの数字だけなのだが、記事のタイトルはどのようになっているのか。

内閣支持46%、不支持47%で拮抗

拮抗というのは日経の判断である。そしてそんな判断はこちらとしては必要ない。数字をみた人それぞれで考えれば良いだけなのである。

私としてはこの数字をどのようにみるのか。世論調査特に内閣支持率のような場合は、調査する主体により数字は随分と異なってくる。先にいったことである。政権よりが調査すれば支持率は高くなり、そうでない場合は、不支持率が高くなる。

日経の場合はどうか。政権べったりというわけでもないが、少なくとも反政権ではない。だから世論調査の傾向としては、政権支持率が高めに出る。そこでのこの数字である。調査担当者自身がちょっと驚いたのではないか。そこで少し見出しに工夫したわけである。面白いのは、この記事の掲載されているグラフのタイトルである。こちらは不支持が支持を逆転と書いている。

私が最近注目しているのは、この日経世論調査でもわかるように、一つの記事中でも裂け目があるものが目立ってきていることだ。拮抗と逆転。強調ポイントが全く別であり、これまでだったらこのような記事は存在することもなかっただろう。

この変化は何を示しているのか。多分、終わりを見据えた動きがすでに始まっているのだろう。

広尾界隈

街並みの印象はその向かっていく方向によって随分と異なるものだ。広尾の場合はどうだろう。広尾の印象としては、日比谷線の広尾駅から階段を登って、広尾の商店街に向かっての風景印象が一般的ではないだろうか。

私が好きな広尾の印象はそれとは違ったものである。恵比寿駅から広尾までのゆく筋道の風景画好きなのである。恵比寿から広尾までは歩いても10 分程度。恵比寿から日比谷線で広尾までの経路もあるのだが、地下鉄を使うよりも気楽に行けるので、こちらの方が自分は好きなのである。

また道筋も楽しみである。小さい個性的な店がいくつか点在しているのである。また家々の光景も楽しみだ。絵にしたのはそんな場面の一つ。言葉ではうまく表現できないのだが、時代を超えた不思議な空間が魅力的だ。