写真愛好家のためのPhotoshop超入門

今は遠く離れてしまったので滅多にいくこともなくなってしまったが、石神井公園の近くに住んでいた時は、毎日のように石神井公園周辺を散歩していた。特に好きな時間帯は午前11時ごろ。池の近くのベンチで池を眺めているだけで、楽しみだった。また近くに引っ越したいところだが、どうなるのか。それはわからない。

眺めている自分の前を人々が通り過ぎていく。そしてその人々であるが、大まかに2種類に分かれる。先頭にたつ指導者のような人に続くようにして、池の周りを足早に通り過ぎていく人たち。日帰りコースの人たちであろう。

別の種類の人々もいる。絵を描く人あるいは写真を撮影する人である。私としてはこちらの人たちに共感を覚える。体力向上には良いかもしれないが、その場所の魅力というものは、足早に通り過ぎるだけではわからないものだ。数時間そこに滞在して、時間の変化を感じる。こちらの楽しみは、通り過ぎるだけよりも数倍も多いのではないか。

じっくりその場所を楽しむ。スケッチや写真撮影は最適なものであろう。

退職後の生活時間が勤労していた時間とほぼ同じになっている現在、退職後になんらかの趣味を持ちたいと思っている人は多いだろう。写真撮影はその中でも特に有力候補なのであるが、同時に気が引けてしまう人も多いのも事実である。

公園などで写真撮影している人たちは、大概は立派なカメラを持っている。望遠レンズにも物凄いものがある。このような状況を見てしまうと、何か立派な道具立てがないと、写真を楽しむことはできないのでは、そう思ってしまうのである。

自分の趣味であり自分の活動である。人のことは全く関係ないのであって、最も大切にしたいことは自分満足である。そして世の中も随分と変化した。スマフォがあれば、十分に写真撮影を楽しむことができるのである。やろうと思えば今日からでも少ない出費で始めることができる。

本連載では、手軽にできてしかもレベルの高い写真撮影の方法や手順をわかりやすく解説していく予定である。写真撮影始めたいのだが、どこから始めようか迷っている人。もう少し撮影レベルをあげたいと思っている人。参考にして欲しいところである。

 

アンソニー=ホロビッツの推理小説

春の暮、川は静かに流れて。

山中 修さんの投稿 2019年3月24日日曜日

前回の続きと言ってもこの記事が初めての人も多いだろう。前回の記事を読んでいなくても意味が通じるように進めていく。

もう久しい以前からテレビは見ていないのだが、例外もある。それが海外ドラマである。もう放送は終了しているのだが、よく見ていた番組は、刑事フォイルである。イギリス製のテレビ番組。第二次世界大戦下での刑事フォイルの活躍を描いたものであり、イギリスの番組らしい雰囲気のあるところが好きな理由である。

つい最近知ったことなのだが、この番組の脚本家であるホロビッツは推理小説も書いているとのこと。早速手に入れて読んでいる。今は3冊目であり、今回の記事ではこのホロビッツの小説をテーマにしてみようと思う。

自分が読んでいる本の大半が推理小説なので、この推理小説について何度か記事にしてみようと思ったことがある。簡単だと考えていたのだが、実際はとても難しいことであり、書き始めては何度も断念した。その難しさとは何か。

推理小説について書く場合に、やってはいけない決まりというものがある。それはその小説の筋を語ってはいけない、ということである。他の分野の小説ならば、そのようなことはない。

例えば夏目漱石のそれから。小説の主人公が出会った先生と呼ばれる人物。その先生が自殺して、小説の後半は遺書の内容で展開されることになる。とこのように小説の筋を書いてもそれほど大きな問題とはならないだろう。なぜ自殺したのか、そして遺書の内容とは、流石にここまで書いてしまうのはどうかとは思うのだが。

推理小説の場合はどうか。推理小説の基本的な流れはどの本でもそれほど大きな違いはない。まず事件や事故が起こる。それも不可解なものとして。その事件や事故の秘密あるいは犯人を解き明かすその工程が小説となるわけである。

粗筋を書くとは結局犯人的な人物が誰だか明らかにすることになってしまう。これではどうだろうか。そんな紹介文を読んだ人は、よっぽどの物好きでない限りは、その推理小説に対しての興味を失ってしまうのは確実だ。

ある本について何かを書く。自分が読んで面白いと思ったので他の人にも読んで欲しい。その目的である。興味を失いような話をしていたのでは、どうしようもないことである。

でホロビッツである。彼の小説作品について書くことは大丈夫なのか。話の筋を書かなくてもその魅力を伝えることができると、私は思うわけである。

先にも書いたように、多様な推理小説があるわけだが、その基本構造は意外と単純なものである。以下である。

ある事件が発生する。最初っから奇妙な時もあるし、また普通の交通事故死のように思える事件など、色々な種類がある。

次に事件が起こる。一つの事件だけだと話の展開も限られてしまいがちである。この2番目の事件が発生することで、最初の奇妙な事件はその奇妙さがいっそうまし、普通の事故に見えたものが、この事件で謎の事件の様相を帯びてくる。

小説の主人公の登場。事件を直接的に扱うことができる刑事や警官。あるいは弁護士など法律関係の人が主人公になる場合が多いようだが、別段それに限ったわけではない。思わぬところで事件に巻き込まれた人や、事件の特殊性(例えば絵画に関係するもの)で警察から協力を求められた美術史家などの専門家などなどなど。

主人公たちが事件の捜査を開始する。犯人が全くわからないで事件だけが次から次へと起こる場合もあるが、こちらも大概は事件の被害者と関係のあるものが捜査対象となる。

そして多くの場合は、捜査対象者にいかにも犯人的な人物が含まれる。例えば被害者に激しい恨みを抱いている愛人などだ。ただいかにもという人物が犯人である場合は、少ないようだ。ネタがすぐバレるようでは、読者の関心を引き続けることは難しい。

主人公が巻き込まれる事件が発生し、事件は思わぬ方向へと進展する。捜査場面は推理小説で最も重要なところであり、また読者が楽しみとするところでもある。関係者の中から読者が自分なりに犯人を予想するところでもあるからだ。

ただこの場面がだらだらと続きすぎるとまた逆に小説への興味が失われてしまう可能性がある。そこで多くの推理小説が採用している方法は、主人公が危機にあうなど、事件が意外な方向に進むような工夫である。

この展開展のあと、事件は解決に向けて急速に動いていくことになり、犯人逮捕で推理小説が終わることになる。まあ小説によっては後日談をつけて、話の広がりをつけたりあるいはシリーズ化するための布石などを打つものもある。

随分と長くなってしまったが、ここまで話したことが、推理小説の基本構造である。自分がこれまで読んだ推理小説のことを思い起こしていただきたい。多分大概の推理小説が上記の構造を踏襲していることが理解できることだろう。

さてさて本題のホロビッツの推理小説である。私が氏の小説を面白いと思った第一のことは、この構造を意識化して従来にない推理小説のタイプを創出しているところだ。例えば、The Word is Murderを取り上げてみる。

推理小説の主人公たち。法律関係の人物が多いようだが、千差万別である。しかしこれにも共通点がある。大概の主人公は小説の作者が作り出した想像上の人物である。どのような人物にするのか、まさに作者の腕の見せ所でもある。魅力的な人物を作り出すことができれば、その人物は推理小説世界での有名ヒーローとなるわけだ。フィリップマーローなどはその典型である。

この小説での主人公はそのようなタイプではない。作者自身がこの小説の主人公的な人物として活躍していることになる。

自分を主人公とした推理小説。聞くだけではそれほど難しく感じないかもしれない。が実はそうでもないことがちょっと考えればわかることだ。

推理小説は架空のものである。であるからこそ、現実感を持たせる必要がある。いかにもこんなことがありそうだ。そう読者が感じなければ、単なる嘘話としてその小説を読み進める人はいなくなってしまう。自分は推理小説家でもないのではっきりしたことはわからないが、推理作家のエッセイなどを読んでみると、かなりの人が綿密に事実関係を調査していることがわかる。例えば江戸時代を背景とした推理時代小説などでは、昔の地図絵なども多いに参考としているようである。

推理小説の主人公を登場させることの難しさがわかるだろう。第一にその小説に作者自らが登場する必然性。作者は当然のごとく小説家である。小説家が事件を解決する活動をする必然性がどこにあるのだろうか。これは実際難しいところである。

彼ホロビッツにはできる。なぜか。先にも書いたかもしれないが、氏は小説家であると同時に刑事ドラマの脚本家でもあるからだ。ここが普通の推理小説家と大きな違いである。

テレビドラマの作り方についてはよく知らない。ただ聞いたところでは、刑事ドラマなどでは実際の警察関係者にアドバイスをしてもらうとのことである。テレビの視聴者はうるさいもので、ちょっとでも現実と違うところがあると、すぐにテレビ局にクレームを入れるものだ。だからこのような方法で予めトラブルを防ぐようにしているのだろう。ここで警察関係者と氏との繋がりができた。事件に作者自身が参加できる環境が本当らしく整ったわけである。

ただ作者自身が小説に登場したからと言って、小説的に効果を発揮しなければそれは意味がないことである。では小説家自身が書いている小説に登場することで、どのような変化が氏の推理小説に生まれているのだろうか。次に考えるところである。

現実と空想の間で生まれる奇妙な感覚。氏の小説から私が感じることである。何やらよくわからない言葉であるが、実感である。

推理小説の話:フォイル刑事の作者について

■Small Talk あるいは語り合い

山中 修さんの投稿 2019年3月29日金曜日

テレビへの興味を全く失った今、当然のことながらテレビなどを見ることは全くない。以前だと別段見たい番組があるわけでもないのに習慣としてテレビのスイッチを入れていたのだが、随分と馬鹿なことをして時間を無駄に使ってしまったと後悔する現在である。

ただ例外もある。それは韓国製のドラマと国営放送がたまに放映しているBBCのドラマである。

最近話題となっているのが、韓国映画がグラミー賞を受賞したことである。外国映画がグラミー賞そのものを受賞したのは初めてということだ。この映画自体はまだ見たことはないのだが、この話を聞いて少しも驚かなかった。韓国ドラマではつまらない家庭劇のようなものでもよくできているものが多い。映像表現の水準が高いことの印であり、そんな状況の中から出てきた成果だと言えるだろう。

英国ドラマの方はどうだろうか。最近で気に入っているのは、刑事フォイルである。原題は違うのだが、第二次世界大戦下でのイギリスの田舎が舞台であり、派手さはないが、雰囲気のあるドラマでありそこが好きなところでもある。

これまでドラマの脚本家という存在についてはそれほど興味がなかったのだが、この刑事ドラマの脚本家が推理小説も書いていることを知って、早速読んでみることにした。その脚本家とはアンソニー・ホロビッツである。すでに2冊は読んで今読んでいるのは3冊目。

このことからもわかるように、自分としては気に入った推理作家ということになる。ではこの作家の作品のどこに魅力を感じているのだろうか。全作品を読んだわけではないが、ここまでの読書体験からその魅力を語ってみたいと思う。

→次回に続く

言葉の遠近法

春いろいろ

山中 修さんの投稿 2019年4月30日火曜日

今ではもう絶対的な手法とは言えないが、絵画表現で重要な表現手段の一つとして遠近法というものがある。立体空間を表現するための手法であり、ダビンチからゴッホまで長い間西洋の画家はこの手法を活用して絵を描いてきた。

この遠近法の優れている点は、遠近法の規則にしたがって絵を描けば、芸術的な価値は別として、誰でもが立体的な絵画を描くことができる点である。

文章を書くことに苦労を感じている人が多い昨今である。文章を書くにも、絵画における遠近法的なものがあったら、どんなに素晴らしいことか。昨日の晩、本を読み終えて寝ようとした時に、そんな考えがふと浮かんできた。

遠近法のような文章の書き方があるとすれば、どのようなものだろうか。今朝起きてからもその考えが頭から離れない。

そして残念なのだが、それがすぐにわからない。何かあるのか。多分あるのだろう。今日はそれが見つからないだけなのだ。

伏見通り

伏見通りの2月
こんなに大きな通りに走る車もほとんどなく
影に隠れるその街並み

2月の空はどこまでも水色となり
白い線が浮かぶその灰色

推理小説を楽しむ

6月の終わり。梅雨空を川は静かに流れ。

山中 修さんの投稿 2019年6月29日土曜日

本を読むと言っても自分の場合は推理小説が大半である。ということでたまには推理小説の書評もして見たいのだが、やってみるとこれが意外と難しい。書くべきことに制限があるからだ。その制限とはご存知の通り、小説の粗筋的なことは書いてはならない、ということである。粗筋を書くとすれば当然推理小説で最も大事な事件や事故の謎を語ることになってしまうからだ。

すでにその本を読んでいる人には良いかもしれないが、これから読む人にとっては興味半減であり、もしかしたらその小説を読むことをやめてしまうかもしれない。出版社への営業妨害的な話でもある。

ではどうしたら良いのだろうかと思っていた時に、ちょうど良い具合に語りやすい推理小説が登場してきた。粗筋を語らなくてもある程度その本の魅力が紹介できそうな推理小説である。

国営放送のBSで番組を見たことがある人がいるかもしれない。

50代妖精論を笑う

春の小川

山中 修さんの投稿 2019年4月6日土曜日

年寄りが増えたからが原因なのか、最近は年寄りに向けての風当たりに厳しいものがある。まあ自分のような勤労社会から外れた人間にはどうでも良い話なのであるが、その馬鹿にする論も甚だしいので、ここであえて反論を試みてみたいと思う。

50代妖精論というものがあるそうだ。私も最近知ったこの言葉なのであるが、大した話ではなく、50代社員は給料が高いくせに全く働いていない、というものである。マスコミあたりが面白おかしく語っていることなので、本当のところはわからない。最近のマスコミなんて単なるデマゴーグ集団にしかすぎたいから。

マスコミ批判はこのくらいでやめておこう。熱が入ってキリがないから。50代社員不要論である。

この種の論調をよく読んでいくとわかるのは、いつもと変わらないコンピュータ使えない人間論である。つまりは若手はコンピュータが得意で老人社員はコンピュータが使いえない。これが根拠なのである。

考えてみるに、これはいつの時代の話なのだろうか。すでにパーソナルコンピュータが示す通り、特殊な職業以外の人がコンピュータを使うようになってから、もう30年以上は経過していることになる。50代の人間もその当時は若手であり、コンピュータが使えるようになっているはずなのである。

50代社員=コンピュータが使えない人間

このような図式はまさに時代遅れな発想なのである。次に考えるのは、ではいわゆる若手というのはコンピュータが本当に使えるのかどうかということである。まあ私としては、老人と同じ程度のコンピュータ能力程度の人が大半だとうことだ。馬鹿みたいに電車でスマフォをみている人間がコンピュータ能力に優れているというのならば、また自分が出しゃばる余地もないのだが。

メール、パワポ、ワード、その程度のソフトが使えるとしてもそれでコンピュータ能力があると言えるのだろうか。コンピュータ能力があると言えるのは、まさにプログラミング能力のある人間だけなのであると、私は考えるわけだ。

その点で言えば、年代に関係なく若手も老人社員も同じくコンピュータ能力がない人間ばかりであり、本質的に妖精社員にしかすぎないのだ。

 

FB活用方法

■打ち捨てられた小さい白い花に陽の光

山中 修さんの投稿 2019年7月16日火曜日

私自身の話なのであるが、どうも二者択一的な発想で凝り固まっているようだ。具体的なところで言えばウェブ活用について。自分サイトとFBでネット活動を展開しているわけだが、いつもどちらかに偏ってしまう。

自分サイトの運営に熱心な時はFBの方は疎かになり、また逆もそうである。同時的に運営できないのである。まあ大方の人もそうなようで、そのような問題を解決するために、一般的な方法も用意されている。自分サイトにFBをそのまま表示する方法である。

便利な方法であることには間違いないが、問題点がないわけではない。1番の問題はサイトの動作が鈍くなること。FB全体を読み込むので、反応がどうしても遅くなるのだ。まあこれは技術的な問題であり、サイト運営に関しては本質的な困難さということでもない。

最も大きな問題となるのが、自分サイトとSNSとのターゲット違いである。簡単に言えば、SNSで効果的な投稿記事がそのまま自分サイトで適切であるとは限らないことである。

あくまでも自分の場合なのだが、SNSと自分サイトではその目的は異なっている。FBはあくまでも友人たちに向けてのメッセージであり、そこに書かれているのは友人たちでなければ理解できないことが多い。であるから、それをそのまま自分サイトで公開するのは、よろしくない。これも日常生活で経験する位ことでもあるのだが、例えば酒の席の話。自分たちだけでわかる話を延々と聞かされたら、誰でも不愉快に思うだろう。それと同じことだ。

ではどうするのかというと、それほど大袈裟な話ではない。FBの記事の中でも一般的な話もあるはずなので、その話だけを選択的に自分サイトで表示させることである。そしてこの方法の便利なところは、特別な方法を全く必要としないことである。

具体的に話てみよう。

自分サイトで展開したいFBの投稿記事があったら、大概は画像も一緒に投稿していると思うので、画像を右クリック。ポップアップメニューが表示されれるので、「リンク先のアドレスをコピー」をクリック。自分サイトの投稿記事エディター(大概の人はWordpressを使っているのでその話)にペーストする(コマンド+v)これで完了である。

写真投稿の例で話をすると、写真、タイトル、反響の順で表示される。嬉しいのはこれはあくまでもリンクなので、この記事の例のように、自分サイトように新しく記事を追加することができるところだ。

自分サイトとSNSの同時運用は確かに面倒なのであるが、ここに紹介した手法を活用すれば、随分と楽で効果的な自分サイト運営が実現できるはずだ。ということで、真っ先に私地震が喜んで活用するようななっているわけである。

自分誕生日祝い

世界で最も美しい場所とコロンブスが言ったマルティニーク島のラム酒。フランス友人のお土産で大事にしておいたのだが、誕生日に託けて飲むことにした。後味の苦味がなんとも言えない深みを感じる。すでに半分。明日にはなくなっているのかもしれない。

山中 修さんの投稿 2020年2月8日土曜日

広尾で映像展開催

色々とメッセージ、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

山中 修さんの投稿 2020年2月8日土曜日

 

久々の映像展を広尾のMuCalで開催している。作曲家の佐藤慶子氏のオリジナル曲とのコラボレーション作品でもある。

今回の映像ではこれまでと作り方もテーマも変えて新しい分野へと挑戦してみた。雪舟の四季山水図長巻をバーチャル的に表現するものだ。

2020年2月7日〜2月23日:13:00〜18:30
詳しい内容は
e-mucul.com