アンソニー=ホロビッツの推理小説

春の暮、川は静かに流れて。

山中 修さんの投稿 2019年3月24日日曜日

前回の続きと言ってもこの記事が初めての人も多いだろう。前回の記事を読んでいなくても意味が通じるように進めていく。

もう久しい以前からテレビは見ていないのだが、例外もある。それが海外ドラマである。もう放送は終了しているのだが、よく見ていた番組は、刑事フォイルである。イギリス製のテレビ番組。第二次世界大戦下での刑事フォイルの活躍を描いたものであり、イギリスの番組らしい雰囲気のあるところが好きな理由である。

つい最近知ったことなのだが、この番組の脚本家であるホロビッツは推理小説も書いているとのこと。早速手に入れて読んでいる。今は3冊目であり、今回の記事ではこのホロビッツの小説をテーマにしてみようと思う。

自分が読んでいる本の大半が推理小説なので、この推理小説について何度か記事にしてみようと思ったことがある。簡単だと考えていたのだが、実際はとても難しいことであり、書き始めては何度も断念した。その難しさとは何か。

推理小説について書く場合に、やってはいけない決まりというものがある。それはその小説の筋を語ってはいけない、ということである。他の分野の小説ならば、そのようなことはない。

例えば夏目漱石のそれから。小説の主人公が出会った先生と呼ばれる人物。その先生が自殺して、小説の後半は遺書の内容で展開されることになる。とこのように小説の筋を書いてもそれほど大きな問題とはならないだろう。なぜ自殺したのか、そして遺書の内容とは、流石にここまで書いてしまうのはどうかとは思うのだが。

推理小説の場合はどうか。推理小説の基本的な流れはどの本でもそれほど大きな違いはない。まず事件や事故が起こる。それも不可解なものとして。その事件や事故の秘密あるいは犯人を解き明かすその工程が小説となるわけである。

粗筋を書くとは結局犯人的な人物が誰だか明らかにすることになってしまう。これではどうだろうか。そんな紹介文を読んだ人は、よっぽどの物好きでない限りは、その推理小説に対しての興味を失ってしまうのは確実だ。

ある本について何かを書く。自分が読んで面白いと思ったので他の人にも読んで欲しい。その目的である。興味を失いような話をしていたのでは、どうしようもないことである。

でホロビッツである。彼の小説作品について書くことは大丈夫なのか。話の筋を書かなくてもその魅力を伝えることができると、私は思うわけである。

先にも書いたように、多様な推理小説があるわけだが、その基本構造は意外と単純なものである。以下である。

ある事件が発生する。最初っから奇妙な時もあるし、また普通の交通事故死のように思える事件など、色々な種類がある。

次に事件が起こる。一つの事件だけだと話の展開も限られてしまいがちである。この2番目の事件が発生することで、最初の奇妙な事件はその奇妙さがいっそうまし、普通の事故に見えたものが、この事件で謎の事件の様相を帯びてくる。

小説の主人公の登場。事件を直接的に扱うことができる刑事や警官。あるいは弁護士など法律関係の人が主人公になる場合が多いようだが、別段それに限ったわけではない。思わぬところで事件に巻き込まれた人や、事件の特殊性(例えば絵画に関係するもの)で警察から協力を求められた美術史家などの専門家などなどなど。

主人公たちが事件の捜査を開始する。犯人が全くわからないで事件だけが次から次へと起こる場合もあるが、こちらも大概は事件の被害者と関係のあるものが捜査対象となる。

そして多くの場合は、捜査対象者にいかにも犯人的な人物が含まれる。例えば被害者に激しい恨みを抱いている愛人などだ。ただいかにもという人物が犯人である場合は、少ないようだ。ネタがすぐバレるようでは、読者の関心を引き続けることは難しい。

主人公が巻き込まれる事件が発生し、事件は思わぬ方向へと進展する。捜査場面は推理小説で最も重要なところであり、また読者が楽しみとするところでもある。関係者の中から読者が自分なりに犯人を予想するところでもあるからだ。

ただこの場面がだらだらと続きすぎるとまた逆に小説への興味が失われてしまう可能性がある。そこで多くの推理小説が採用している方法は、主人公が危機にあうなど、事件が意外な方向に進むような工夫である。

この展開展のあと、事件は解決に向けて急速に動いていくことになり、犯人逮捕で推理小説が終わることになる。まあ小説によっては後日談をつけて、話の広がりをつけたりあるいはシリーズ化するための布石などを打つものもある。

随分と長くなってしまったが、ここまで話したことが、推理小説の基本構造である。自分がこれまで読んだ推理小説のことを思い起こしていただきたい。多分大概の推理小説が上記の構造を踏襲していることが理解できることだろう。

さてさて本題のホロビッツの推理小説である。私が氏の小説を面白いと思った第一のことは、この構造を意識化して従来にない推理小説のタイプを創出しているところだ。例えば、The Word is Murderを取り上げてみる。

推理小説の主人公たち。法律関係の人物が多いようだが、千差万別である。しかしこれにも共通点がある。大概の主人公は小説の作者が作り出した想像上の人物である。どのような人物にするのか、まさに作者の腕の見せ所でもある。魅力的な人物を作り出すことができれば、その人物は推理小説世界での有名ヒーローとなるわけだ。フィリップマーローなどはその典型である。

この小説での主人公はそのようなタイプではない。作者自身がこの小説の主人公的な人物として活躍していることになる。

自分を主人公とした推理小説。聞くだけではそれほど難しく感じないかもしれない。が実はそうでもないことがちょっと考えればわかることだ。

推理小説は架空のものである。であるからこそ、現実感を持たせる必要がある。いかにもこんなことがありそうだ。そう読者が感じなければ、単なる嘘話としてその小説を読み進める人はいなくなってしまう。自分は推理小説家でもないのではっきりしたことはわからないが、推理作家のエッセイなどを読んでみると、かなりの人が綿密に事実関係を調査していることがわかる。例えば江戸時代を背景とした推理時代小説などでは、昔の地図絵なども多いに参考としているようである。

推理小説の主人公を登場させることの難しさがわかるだろう。第一にその小説に作者自らが登場する必然性。作者は当然のごとく小説家である。小説家が事件を解決する活動をする必然性がどこにあるのだろうか。これは実際難しいところである。

彼ホロビッツにはできる。なぜか。先にも書いたかもしれないが、氏は小説家であると同時に刑事ドラマの脚本家でもあるからだ。ここが普通の推理小説家と大きな違いである。

テレビドラマの作り方についてはよく知らない。ただ聞いたところでは、刑事ドラマなどでは実際の警察関係者にアドバイスをしてもらうとのことである。テレビの視聴者はうるさいもので、ちょっとでも現実と違うところがあると、すぐにテレビ局にクレームを入れるものだ。だからこのような方法で予めトラブルを防ぐようにしているのだろう。ここで警察関係者と氏との繋がりができた。事件に作者自身が参加できる環境が本当らしく整ったわけである。

ただ作者自身が小説に登場したからと言って、小説的に効果を発揮しなければそれは意味がないことである。では小説家自身が書いている小説に登場することで、どのような変化が氏の推理小説に生まれているのだろうか。次に考えるところである。

現実と空想の間で生まれる奇妙な感覚。氏の小説から私が感じることである。何やらよくわからない言葉であるが、実感である。