寒雨

昨夜よりの雪模様は朝となるとすでに雨となっている。

高架を走る電車には寒雨に濡れた風景が映り込む。

飛んでゆけ心。遠く遠く、そして遠く。

賢治の女

何もここで宮沢賢治の女性関係についての話をするつもりはない。宮沢賢治の詩の一つである「女」についてだ。

不思議な題名である。最初この題名を見たときは、これが宮沢賢治の詩であるとは信じることはできなかった。何か切り捨てるような表現。どうしても雨ニモマケズの賢治であると、信じられなかった。

詩の内容はどうか。これもまた不思議なことで何やら不気味さえ感じられるものである。まあ自分の感想などはどうでも良いであろう。途中からにはなるが、その詩の一節を引用してみる。

まっ黒な家の中には黄いろなランプがぼんやり点いて顔のまっかな若い女がひとりでせわしなく飯をかきこんでいる。
かきこんでいる。その澱粉の灰色。
ランプのあかりに暗の中から引きずり出された梢の緑、
実に恐ろしく青く見える。恐ろしく深く見える。恐ろしくゆらいで見える。

どうだろうか。このような感じである。

最初この詩を読んだときは、わけのわからない詩だなというものである。であるならばそのまま素通りすれば良いだけの話なのだが、それができなない。同じような場面に自分も遭遇したことがあるからだ。

あれはいつのことだっただろうか。詳しい日時は忘れたしまったのだが。家のものと一緒に山中湖で一泊したことがある。神社好きの家のものの要望で、山中湖から富士吉田へのバスの途中で、富士浅間神社によることにした。帰りのバスがいつ来るかもしれないので、その神社から富士吉田の駅まで歩くことにした。

その帰りの途中で見たのが、公営住宅のような一軒家の真ん中の座敷の座卓の上においたうどんを夢中になって食べている、こちらは年取った女である。

特別な場面でもないのだが、驚いたのは、家のものにもこの場面のことが強く印象に残っていたことだ。もうそれから10年以上も経つだろうか。今でも時たまその時のことが話題になることがあり、家のものの笑い話となることがある。

自分の場合はその時のことを何かで表現したわけではないが、それだけにこの宮沢賢治の「女」がきになるのである。

この詩はなんなのだろうか。2、3度読み返して自分なりにわかってきたことは、この詩に意味を求めるべきではないことだ。この詩が表現している世界をそのまま味合うこと。そのように考えて読んでみると、急にこの詩の面白さや素晴らしさがわかって来る。

さらに面白いのは、この詩を味わってからは、宮沢賢治の童話的物語など他の話もまた随分と違った様相で現れて来ることだ。

童話的な物語となると、ほっておくと何やら教訓話的なものになるのだが、宮沢賢治の場合は、そのような話は全くない。むしろ結論的な話は宙に浮いたままで、その終わりのない感じが独特なのである。

そんな世界を表現したその根には、この「女」と共通なものがあるのだろう。

実に恐ろしくゆらいで見える。

何が?