広尾界隈

街並みの印象はその向かっていく方向によって随分と異なるものだ。広尾の場合はどうだろう。広尾の印象としては、日比谷線の広尾駅から階段を登って、広尾の商店街に向かっての風景印象が一般的ではないだろうか。

私が好きな広尾の印象はそれとは違ったものである。恵比寿駅から広尾までのゆく筋道の風景画好きなのである。恵比寿から広尾までは歩いても10 分程度。恵比寿から日比谷線で広尾までの経路もあるのだが、地下鉄を使うよりも気楽に行けるので、こちらの方が自分は好きなのである。

また道筋も楽しみである。小さい個性的な店がいくつか点在しているのである。また家々の光景も楽しみだ。絵にしたのはそんな場面の一つ。言葉ではうまく表現できないのだが、時代を超えた不思議な空間が魅力的だ。

日々の詩作:揺れる女

揺れる、女が揺れる
座った席から女を見上げた。奇妙に体が揺れているから。

揺れる、女が揺れる
嬉しそうな顔。何が嬉しいのか、それはわからない。

揺れる、女が揺れる
今は苦しそうな顔。何が苦しいのかそれはわからない。

酔っ払いの女か
揺れる、女が揺れる。揺れた記憶だけが残る。

嘘つき政府ではこの危機を乗り越えることはできない

クルーズ船のゴタゴタ騒ぎの間に、事態は別次元となったようだ。感染源あるいは感染経路が特定できない事態。つまりは、誰でもが感染する可能性がありまた同時に自分が感染源になる可能性が出てきたわけである。

特定の人物を槍玉にあげることで、根本的な問題から目を背けてきたこの国の社会である。この新型肺炎の場合もそうだ。中国悪者論を盛んに流布している連中はその典型であろう。しかしすでに書いているように、そんな時期は過ぎてしまった。誰かのせいにしても全く意味がないのである。

このような事態になった場合、では私たちはどのように行動すれば良いのだろうか。正確な情報に基づいた的確な行動。ある意味では当たり前のことではあるのだが、これを実現するのはかなり難しいと言える。なぜならば、このことを実現するためには、自分の考え方を変える必要があるからだ。

新型肺炎については素人から専門家まで多様な意見をネット上で表明している。私がそれらの意見というか偏見というかに違和感を覚えるのは、ほとんどの発言者は自分はその肺炎にかからない特別な存在だと思っていることだ。なんの根拠もない自信であるが、このような考え方をしている限りは、先の当たり前のことは実現できない。

その例が、いまだに電車内で口も塞がずに咳を平気でしている人間が多いことだ。自分は新型肺炎に無関係であると、勝手に思い込んでいるだけであり、このような人間が新型肺炎の感染源になることは間違いない。

もう一つの大きな問題が、現在の政府である。嘘つきの政府である。人によっては大した嘘ではないと思っているようだ。考えの相当甘いというか判断力が随分と不足している人である。

嘘を隠蔽するために役人が動いている、このことが最大の問題なのである。

色々と問題を起こす議員がいてもそれは良いであろう。少なくとも勝手に議員になれるわけでもなく、選挙で選ばれた=住民の意向の反映であるからだ。問題議員がいたとすれば、それは全てその議員を選んだ住民の責任なのである。

役人特に国家官僚はどうか。公務員試験というものを通った連中のことだが、果たしてその試験とはどのようなものか。多分むづかしいのだろうが、そのむづかしさの中身が問題だ。役人村への通行書のようなものではないのか。つまりは自分たち組織に適合した人間だけを選ぶ内容だと想像できる。

つまりは自分都合の人間たちの集団なのであるが、政治家が制御している限りでは、それでも民意を反映した組織だと言えるだろう。

しかし、政治家が官僚に引目を感じている現在。嘘つきの尻拭いで官僚に世話になっているから。

これでは、どうしようもない。先に述べたように国家公務員試験からして、自分都合の良い人間を選ぶためのシステムにしか過ぎない。このような人間たちが現在のような緊急事態に十分に対応できるとは思わない。今回のクルーズ船の例でもよくわかることだ。ただいたずらに感染者を増やすだけの愚作を展開しているだけである。

嘘つき内閣では、まさに私自身の命が危ない状況である。もうオリンピックなんかどうでも良いだろう。

アンソニー=ホロビッツの推理小説

春の暮、川は静かに流れて。

山中 修さんの投稿 2019年3月24日日曜日

前回の続きと言ってもこの記事が初めての人も多いだろう。前回の記事を読んでいなくても意味が通じるように進めていく。

もう久しい以前からテレビは見ていないのだが、例外もある。それが海外ドラマである。もう放送は終了しているのだが、よく見ていた番組は、刑事フォイルである。イギリス製のテレビ番組。第二次世界大戦下での刑事フォイルの活躍を描いたものであり、イギリスの番組らしい雰囲気のあるところが好きな理由である。

つい最近知ったことなのだが、この番組の脚本家であるホロビッツは推理小説も書いているとのこと。早速手に入れて読んでいる。今は3冊目であり、今回の記事ではこのホロビッツの小説をテーマにしてみようと思う。

自分が読んでいる本の大半が推理小説なので、この推理小説について何度か記事にしてみようと思ったことがある。簡単だと考えていたのだが、実際はとても難しいことであり、書き始めては何度も断念した。その難しさとは何か。

推理小説について書く場合に、やってはいけない決まりというものがある。それはその小説の筋を語ってはいけない、ということである。他の分野の小説ならば、そのようなことはない。

例えば夏目漱石のそれから。小説の主人公が出会った先生と呼ばれる人物。その先生が自殺して、小説の後半は遺書の内容で展開されることになる。とこのように小説の筋を書いてもそれほど大きな問題とはならないだろう。なぜ自殺したのか、そして遺書の内容とは、流石にここまで書いてしまうのはどうかとは思うのだが。

推理小説の場合はどうか。推理小説の基本的な流れはどの本でもそれほど大きな違いはない。まず事件や事故が起こる。それも不可解なものとして。その事件や事故の秘密あるいは犯人を解き明かすその工程が小説となるわけである。

粗筋を書くとは結局犯人的な人物が誰だか明らかにすることになってしまう。これではどうだろうか。そんな紹介文を読んだ人は、よっぽどの物好きでない限りは、その推理小説に対しての興味を失ってしまうのは確実だ。

ある本について何かを書く。自分が読んで面白いと思ったので他の人にも読んで欲しい。その目的である。興味を失いような話をしていたのでは、どうしようもないことである。

でホロビッツである。彼の小説作品について書くことは大丈夫なのか。話の筋を書かなくてもその魅力を伝えることができると、私は思うわけである。

先にも書いたように、多様な推理小説があるわけだが、その基本構造は意外と単純なものである。以下である。

ある事件が発生する。最初っから奇妙な時もあるし、また普通の交通事故死のように思える事件など、色々な種類がある。

次に事件が起こる。一つの事件だけだと話の展開も限られてしまいがちである。この2番目の事件が発生することで、最初の奇妙な事件はその奇妙さがいっそうまし、普通の事故に見えたものが、この事件で謎の事件の様相を帯びてくる。

小説の主人公の登場。事件を直接的に扱うことができる刑事や警官。あるいは弁護士など法律関係の人が主人公になる場合が多いようだが、別段それに限ったわけではない。思わぬところで事件に巻き込まれた人や、事件の特殊性(例えば絵画に関係するもの)で警察から協力を求められた美術史家などの専門家などなどなど。

主人公たちが事件の捜査を開始する。犯人が全くわからないで事件だけが次から次へと起こる場合もあるが、こちらも大概は事件の被害者と関係のあるものが捜査対象となる。

そして多くの場合は、捜査対象者にいかにも犯人的な人物が含まれる。例えば被害者に激しい恨みを抱いている愛人などだ。ただいかにもという人物が犯人である場合は、少ないようだ。ネタがすぐバレるようでは、読者の関心を引き続けることは難しい。

主人公が巻き込まれる事件が発生し、事件は思わぬ方向へと進展する。捜査場面は推理小説で最も重要なところであり、また読者が楽しみとするところでもある。関係者の中から読者が自分なりに犯人を予想するところでもあるからだ。

ただこの場面がだらだらと続きすぎるとまた逆に小説への興味が失われてしまう可能性がある。そこで多くの推理小説が採用している方法は、主人公が危機にあうなど、事件が意外な方向に進むような工夫である。

この展開展のあと、事件は解決に向けて急速に動いていくことになり、犯人逮捕で推理小説が終わることになる。まあ小説によっては後日談をつけて、話の広がりをつけたりあるいはシリーズ化するための布石などを打つものもある。

随分と長くなってしまったが、ここまで話したことが、推理小説の基本構造である。自分がこれまで読んだ推理小説のことを思い起こしていただきたい。多分大概の推理小説が上記の構造を踏襲していることが理解できることだろう。

さてさて本題のホロビッツの推理小説である。私が氏の小説を面白いと思った第一のことは、この構造を意識化して従来にない推理小説のタイプを創出しているところだ。例えば、The Word is Murderを取り上げてみる。

推理小説の主人公たち。法律関係の人物が多いようだが、千差万別である。しかしこれにも共通点がある。大概の主人公は小説の作者が作り出した想像上の人物である。どのような人物にするのか、まさに作者の腕の見せ所でもある。魅力的な人物を作り出すことができれば、その人物は推理小説世界での有名ヒーローとなるわけだ。フィリップマーローなどはその典型である。

この小説での主人公はそのようなタイプではない。作者自身がこの小説の主人公的な人物として活躍していることになる。

自分を主人公とした推理小説。聞くだけではそれほど難しく感じないかもしれない。が実はそうでもないことがちょっと考えればわかることだ。

推理小説は架空のものである。であるからこそ、現実感を持たせる必要がある。いかにもこんなことがありそうだ。そう読者が感じなければ、単なる嘘話としてその小説を読み進める人はいなくなってしまう。自分は推理小説家でもないのではっきりしたことはわからないが、推理作家のエッセイなどを読んでみると、かなりの人が綿密に事実関係を調査していることがわかる。例えば江戸時代を背景とした推理時代小説などでは、昔の地図絵なども多いに参考としているようである。

推理小説の主人公を登場させることの難しさがわかるだろう。第一にその小説に作者自らが登場する必然性。作者は当然のごとく小説家である。小説家が事件を解決する活動をする必然性がどこにあるのだろうか。これは実際難しいところである。

彼ホロビッツにはできる。なぜか。先にも書いたかもしれないが、氏は小説家であると同時に刑事ドラマの脚本家でもあるからだ。ここが普通の推理小説家と大きな違いである。

テレビドラマの作り方についてはよく知らない。ただ聞いたところでは、刑事ドラマなどでは実際の警察関係者にアドバイスをしてもらうとのことである。テレビの視聴者はうるさいもので、ちょっとでも現実と違うところがあると、すぐにテレビ局にクレームを入れるものだ。だからこのような方法で予めトラブルを防ぐようにしているのだろう。ここで警察関係者と氏との繋がりができた。事件に作者自身が参加できる環境が本当らしく整ったわけである。

ただ作者自身が小説に登場したからと言って、小説的に効果を発揮しなければそれは意味がないことである。では小説家自身が書いている小説に登場することで、どのような変化が氏の推理小説に生まれているのだろうか。次に考えるところである。

現実と空想の間で生まれる奇妙な感覚。氏の小説から私が感じることである。何やらよくわからない言葉であるが、実感である。

推理小説の話:フォイル刑事の作者について

■Small Talk あるいは語り合い

山中 修さんの投稿 2019年3月29日金曜日

テレビへの興味を全く失った今、当然のことながらテレビなどを見ることは全くない。以前だと別段見たい番組があるわけでもないのに習慣としてテレビのスイッチを入れていたのだが、随分と馬鹿なことをして時間を無駄に使ってしまったと後悔する現在である。

ただ例外もある。それは韓国製のドラマと国営放送がたまに放映しているBBCのドラマである。

最近話題となっているのが、韓国映画がグラミー賞を受賞したことである。外国映画がグラミー賞そのものを受賞したのは初めてということだ。この映画自体はまだ見たことはないのだが、この話を聞いて少しも驚かなかった。韓国ドラマではつまらない家庭劇のようなものでもよくできているものが多い。映像表現の水準が高いことの印であり、そんな状況の中から出てきた成果だと言えるだろう。

英国ドラマの方はどうだろうか。最近で気に入っているのは、刑事フォイルである。原題は違うのだが、第二次世界大戦下でのイギリスの田舎が舞台であり、派手さはないが、雰囲気のあるドラマでありそこが好きなところでもある。

これまでドラマの脚本家という存在についてはそれほど興味がなかったのだが、この刑事ドラマの脚本家が推理小説も書いていることを知って、早速読んでみることにした。その脚本家とはアンソニー・ホロビッツである。すでに2冊は読んで今読んでいるのは3冊目。

このことからもわかるように、自分としては気に入った推理作家ということになる。ではこの作家の作品のどこに魅力を感じているのだろうか。全作品を読んだわけではないが、ここまでの読書体験からその魅力を語ってみたいと思う。

→次回に続く

言葉の遠近法

春いろいろ

山中 修さんの投稿 2019年4月30日火曜日

今ではもう絶対的な手法とは言えないが、絵画表現で重要な表現手段の一つとして遠近法というものがある。立体空間を表現するための手法であり、ダビンチからゴッホまで長い間西洋の画家はこの手法を活用して絵を描いてきた。

この遠近法の優れている点は、遠近法の規則にしたがって絵を描けば、芸術的な価値は別として、誰でもが立体的な絵画を描くことができる点である。

文章を書くことに苦労を感じている人が多い昨今である。文章を書くにも、絵画における遠近法的なものがあったら、どんなに素晴らしいことか。昨日の晩、本を読み終えて寝ようとした時に、そんな考えがふと浮かんできた。

遠近法のような文章の書き方があるとすれば、どのようなものだろうか。今朝起きてからもその考えが頭から離れない。

そして残念なのだが、それがすぐにわからない。何かあるのか。多分あるのだろう。今日はそれが見つからないだけなのだ。

伏見通り

伏見通りの2月
こんなに大きな通りに走る車もほとんどなく
影に隠れるその街並み

2月の空はどこまでも水色となり
白い線が浮かぶその灰色

推理小説を楽しむ

6月の終わり。梅雨空を川は静かに流れ。

山中 修さんの投稿 2019年6月29日土曜日

本を読むと言っても自分の場合は推理小説が大半である。ということでたまには推理小説の書評もして見たいのだが、やってみるとこれが意外と難しい。書くべきことに制限があるからだ。その制限とはご存知の通り、小説の粗筋的なことは書いてはならない、ということである。粗筋を書くとすれば当然推理小説で最も大事な事件や事故の謎を語ることになってしまうからだ。

すでにその本を読んでいる人には良いかもしれないが、これから読む人にとっては興味半減であり、もしかしたらその小説を読むことをやめてしまうかもしれない。出版社への営業妨害的な話でもある。

ではどうしたら良いのだろうかと思っていた時に、ちょうど良い具合に語りやすい推理小説が登場してきた。粗筋を語らなくてもある程度その本の魅力が紹介できそうな推理小説である。

国営放送のBSで番組を見たことがある人がいるかもしれない。

50代妖精論を笑う

春の小川

山中 修さんの投稿 2019年4月6日土曜日

年寄りが増えたからが原因なのか、最近は年寄りに向けての風当たりに厳しいものがある。まあ自分のような勤労社会から外れた人間にはどうでも良い話なのであるが、その馬鹿にする論も甚だしいので、ここであえて反論を試みてみたいと思う。

50代妖精論というものがあるそうだ。私も最近知ったこの言葉なのであるが、大した話ではなく、50代社員は給料が高いくせに全く働いていない、というものである。マスコミあたりが面白おかしく語っていることなので、本当のところはわからない。最近のマスコミなんて単なるデマゴーグ集団にしかすぎたいから。

マスコミ批判はこのくらいでやめておこう。熱が入ってキリがないから。50代社員不要論である。

この種の論調をよく読んでいくとわかるのは、いつもと変わらないコンピュータ使えない人間論である。つまりは若手はコンピュータが得意で老人社員はコンピュータが使いえない。これが根拠なのである。

考えてみるに、これはいつの時代の話なのだろうか。すでにパーソナルコンピュータが示す通り、特殊な職業以外の人がコンピュータを使うようになってから、もう30年以上は経過していることになる。50代の人間もその当時は若手であり、コンピュータが使えるようになっているはずなのである。

50代社員=コンピュータが使えない人間

このような図式はまさに時代遅れな発想なのである。次に考えるのは、ではいわゆる若手というのはコンピュータが本当に使えるのかどうかということである。まあ私としては、老人と同じ程度のコンピュータ能力程度の人が大半だとうことだ。馬鹿みたいに電車でスマフォをみている人間がコンピュータ能力に優れているというのならば、また自分が出しゃばる余地もないのだが。

メール、パワポ、ワード、その程度のソフトが使えるとしてもそれでコンピュータ能力があると言えるのだろうか。コンピュータ能力があると言えるのは、まさにプログラミング能力のある人間だけなのであると、私は考えるわけだ。

その点で言えば、年代に関係なく若手も老人社員も同じくコンピュータ能力がない人間ばかりであり、本質的に妖精社員にしかすぎないのだ。