村上春樹と庄野潤三と家族像

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村上春樹氏の「若い人のための短編小説案内」を読みました。再読です。若くもなく年寄りですが、楽しんで読んだところです。若い時は文芸評論家の小説論や作家論なども読んだことがありますが、正直なところそれほど面白いと感じたことはありません。小説そのものを語るよりも、結局のところは、文芸評論家自身のいわゆる理論を展開するばかりだからです。

村上春樹氏のこの本が面白いのは、氏自身がやはり小説家だからではないかと思います。文芸評論家では絶対に書けないような、特に創作的なことに関しての話は、これまで聞いたことがないように新鮮です。

わたくし自身がこの本を手にしたのは、村上春樹氏による文芸評論的なタイトルに引かれたからです。中身も確認しないで購入したのですが、取り上げている作家たちは第三の新人と称される人たちです。

吉行淳之介氏や安岡章太郎氏など名前は聞いたことがありますが、なぜかしらこれまでこの人たちの小説は読んだことがありませんでした。この本を読み終えた後、そこでこれらの作家の小説を読むことにしました。ある程度の小説を読むことができましたので、再読ということになったわけです。

言うべき時にはしっかりと発言するが、全体的には温厚な人柄。わたくしの勝手な村上春樹像です。あくまでもわたくしが読んだ範囲での話とはなりますが、氏のエッセイなどでも、実際、個人攻撃的な内容のものは読んだ記憶がありません。

ですから、この本の庄野潤三氏に対しての解説部分では、ちょっとびっくりしたところがあります。庄野氏の作品に対してちゃんとした評価してでのことではありませすが、ちょっと批判的なところが強い感じがしました。どうしてなのでしょうか。疑問に思いましたので、特に庄野潤三氏の作品を中心として、読んで見ました。作品としはプールサイト小景、静物そして夕べの雲です。

この3つの作品を読んで、わたくし自身はどのように感じたのか。プールサイド小景、静物に関しては、何も言うことはないでしょう。評判通りの名作です。この2作を読んでからのことであり、夕べの雲はそれなりに期待をして読んで見たわけですが。

庄野氏には根強いファンが多いので、言いにくいことではありますが、あくまでもわたくし自身の感じからすると、正直なところつまらない小説だと思いました。前2作とは全く違った手法で書かれた小説であり、また庄野氏も意識的に方向転換した結果が夕べの雲です。そしてその方向転換について、村上春樹氏も触れているのですが、わたくしもその通りだと思いました。

どのような方向転換なのでしょうか。わたくしなりの解釈では、虚構としての小説から事実としての小説です。前の2作では、作者の経験も一部含まれているにしても、小説の本筋は虚構です。夕べの雲では、今度は多少の虚構を交えながらも、小説の本筋は作者の家族の話です。

ただ注意して欲しいのは、これが旧来の私小説ではないことです。赤裸々な作者の話と言うことからもわかりますように、旧来の私小説は事実自体が特異なものである必要がありました。夕べの雲では、そのような特異な事実というものは、全くありません。淡々と家族の日々の記録文のようなものが続いていくだけです。事件さえも起こりません。まあムカデが天井から落ちてきたことを事件とするならば、話はまた違ってきますが。

わたくしが驚いたのは、この小説が新聞小説として書かれたことであり、また読者の反響もよかったことです。また単行本として出版された際にも、多くの評論家から好意的に迎えられました。例えば江藤淳など。

どこが優れているのでしょうか。わたくし自身の読み方が間違っているのでは、そんなことも考えてしまいます。別段、勉強のために小説を読むわけではないので、つまらないと感じたことは、それはそれでわたくしには真実のことだと思います。

どの点が面白くなかった話をしても意味はないと思いますので、庄野氏が前の2作品と傾向を変えた理由を考えることにします。その理由は氏自身が語っていることでもあります。

これらの作品を書くには本当に苦労した。このような経験は二度としたくない。

小説家の言葉としてはちょっと不思議なところでもありますが、では何故これほど苦労したのでしょうか。これについても作者自身の説明があります。

わたくしは本来的に小説(虚構?)が好きではありませんでした。好んだのは事実的な話なのです。

方向転換も適当に行われたわけではなく、ちゃんとした意味があったわけです。先に庄野氏の小説は私小説ではないと書きました。実際、自分の家族を描いた小説だけを書いていたのではありません。人から聞いて興味深い人物がいると、インタビューまでおこなって小説に仕立てたりもしています。つまり、自分の家族を描くにしてもそれは一つの家族のルポルタージュ的なものなのです。

そしてこの方向展開は成功したと言っても良いでしょう。これも先に書きましたように、新聞小説としても読者からの評価は高かったことが、その証拠でもありませす。

方向転換の理由がわかったところで、次の疑問が湧きます。それは、この方向転換が何故多くの人の支持を集めたかです。失礼な言い方とはなりますが、夕方の雲で描かれている家族の話は、特別なことではありません。単なる日常的な話だと言っても良いでしょう。

ここで注目したいのは、どの新聞にこの小説が連載されたかです。意外な感じがするかもしれませんが、日経新聞です。日経新聞とはビジネス新聞であり、読者もビジネス情報を求めている人たちです。この小説とはかけ離れた存在ではないでしょうか。

誰もが庄野家のような暮らしをしているならば、多分この小説に興味を持つ人は少ないのではないでしょうか。ある評論家が、この小説で描かれた家族のことを聖家族と読んでいました。つまりは、すでに失われてしまった家族と言うことです。こんな時代もあったのだなと、読者の多くは郷愁的な感じを受け、それが高い評価となったのでは。

失われた家族と何か。平凡な家族です。家族の主が作家であるという特殊な事情が幸いして、この家族には以前の家族というものが奇跡的に保たれていると言えるでしょう。以前の家族とはその基本は農家であり、仕事場は自分の農地なので、大概は人がいる家族です。

ビジネスが家庭に入り込むことで、この家族像は崩壊します。父親が勤めに出ることで家族ないでの父親の存在はどんどんと薄くなり、また近所の人との繋がりも断ち切れてしまうようになってしまう。このように書いてきますと、まさにプールサイド小景で描かれた家族そのものになってしまいます。15年間も夫婦生活を続けながら、相手が何を思って日々過ごしているのかもわからない関係。ビジネスが生活に入り込むことで、従来の家族像が大きく変質してしまうのです。

現在の家族生活とはプールサイド小景そのものであり、ことによるともっと悪化しているかもしれません。最近の大きな事件もその多くが家族関係の崩壊が原因となっています。

もちろん、失われた家族というのは、庄野氏が原因であるわけでもありません。では何故、村上春樹氏は庄野氏に対して批判的なのでしょうか。わたくしの考えですが、多分それは作家という存在に対しての両氏の考え方の違いでしょう。

どのような違いなのか。残念ながらわたくしとしてもまだぼんやりとしたものです。村上春樹氏の本からの引用で今回の記事を終わりたいと思います。

つまり主人公は家父長として成功を収め、それに少なからぬ自信を抱くようになっているわけです。

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