本の散歩道:博士の愛した数式

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小川洋子氏の「博士が愛した数式」は不思議なタイトルの小説です。タイトルが不思議だけではなく、読んだ人の心の中にマジックを呼び起こす、不思議な力も持っています。15年以上前に出版された本ですが、偶然の機会にこの本を見つけ読むことになりました。今回の記事では、この「博士が愛した数式」を紹介したいと思います。

瀬戸内海に面した小さな町。家政婦紹介所組合からの紹介で、主人公である私は家政婦として働いています。30歳代ですがすでに家政婦歴10年のベテラン。子持ちのシングルマザーとして、若いうちから働かなければならなかったからです。母親などの身内のものはすでに亡く、11歳になる男の子とひっそりと暮らしています。

そんな私にある日紹介所から家政婦の斡旋がきました。老婦人からの依頼ですが、ちょっと変わった家政婦の仕事です。家政婦として働くのは、老婦人のギテイ(義弟)です。家政婦としての仕事は通常のもの。昼食や夕飯を作ったり、洗濯や掃除など。変わっているのは、その義弟です。

オックスフォード大学を卒業した数学博士。日本に帰ってからは大学の先生として数学を教えていたのですが、ある日の交通事故により、人生は暗転します。記憶力に障害が生じて、記憶が80分間しか持続しないのです。事故前の記憶と、80分間の記憶。博士の全ての記憶です。

私とそんな博士とでは話が進行するのかと疑問に思う間も無く、私たちはこの小説の世界に引き込まれてしまいます。私と博士の中立となるのが、数学あるいは数式。子供も交えながら、3人による奇妙な数学的な生活が進行していくことになります。

数式が人々の関係を形作る空間的なものだとすると、この小説にはもう一つの大きな要素があります。それがプロ野球。しかもそのプロ野球とは博士の記憶に残るプロ野球であり、登場選手も江夏を中心として、往年の名選手たちです。わかる年代は限られしまうかもしれませんが、小川洋子氏(1962年生まれ)と同年代の人ならば、誰でも一度は耳にしたことのある選手たち。

数式を横糸に、プロ野球を縦糸として物語が面白くもおかしくもありながら展開していきます。途中、私が一時的にその家の家政婦を首になったり、老婦人と博士との秘密の関係が明らかとなったり、そして私と博士との淡い恋模様。結局のところは。是非この本で実際に読んで確かめて欲しいところです。

読んだ人の心にマジックが起きると書きました。もちろん、オカルト的なものではありません。記憶の奥底に沈んでいた、ある気持ちあるいは感情が不意に蘇ってくる、ということです。わたくしの場合は、懐かしさの気持ち。この本を読んだ後、これまで思い出しもしなかった懐かしき人々の顔が、次から次へ浮かんできました。小学生の頃の転校生。転校してきたと思ったらまた転校。あるいは筋ジストロフィーで4年生になってから初めて登校してきた同級生。しばらくしてまた来なくなってしまったのですが、中学生の頃になくなったと聞きました。そんなこんなの思い出。久しく忘れていた懐かしさという気持ちがマジックのようにして、立ち上がってきたわけです。

最近は、小説世界も難しい局面にさしかかっているようですが、この「博士の愛した数式」はいかにも小説らしい小説であり、まだまだ小説の力はあるなと感じたものです。

■小川洋子氏紹介:新潮文庫より
1962年岡山県生まれ。早稲田大学文学部卒。88年海燕新人文学賞受賞。91年芥川賞受賞。翻訳された作品も多く、海外での評価も高い。

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