吉行淳之介と大江健三郎で考える働き改革

Posted on

わたくしとしては作家という存在に特に興味があります。自分では全くできない小説を作り出すその能力に感嘆するわけですが、理由はそれだけではありません。もう一つの興味は、作家のいわゆる仕事術です。

わたくしのような一般人にとって、仕事とは何か。もちろん自分の意志も働いていることは確かですが、多くは外的な条件によるものです。会社が決めた出勤時間に間に合うように家をでる。会社が決めた作業を遂行する。このようなものです。作家の場合はどうでしょうか。連載の締め切りがあるなどの外的な条件はあるにしても、作業自体は全くの自発的なものです。何を書くかに始まり、どのように書く作業を生活に組み込んでいくか。作家の自由です。書いた本が売れなければそれでおしまい、という厳しい厳しいものではありますが。

わたくしの読書特に小説の読み方は、かなり前からずっと同じものです。気に入った作家が登場すると、その作家の本をはじからはじまで読んでしまう、このような方法です。そのような作家として、去年2018年の夏頃は吉行淳之介。今年2019年の春先は、大江健三郎となりました。

両氏の全作品を読み終えて思うのは、仕事と生活に関して、大いなる共通点とまた同時に大いなる違いがあることがわかりました。このことを検討していけば、何かしら私たちにも役立つことがわかるのではないか、そんなことが思い浮かびました。

わたくしたちの多くは小説を書くわけでもないし、また作家ほどの自由裁量が許されているわけでもありません。最近の「働き方改革」にしても、単に残業時間を減らせば良いといった単純なものではありません。より良い生活と質の高い仕事の成果の両立を狙ったものです。ある意味では作家と同じようなことが求められているといってもよいでしょう。どんな話とはるか。まずは開始してみます。

吉行淳之介氏は東大中退後、ある雑誌社で編集および記事作成の仕事につきました。その間に書いた小説「驟雨」で芥川賞を受賞し、本格的な作家活動を開始します。大江健三郎氏の場合は、東大在学中に書いた「奇妙な仕事」が学生新聞の賞をとり、それが評論家の注目を集め、芥川賞を受賞することになりました。

育った時代背景としては、吉行氏の場合は、学生時代がそのまま太平洋戦争の時期と重なります。大江氏の場合は、中学生あたりで敗戦となり、新しくなった教育制度で学生時代を過ごすことになりました。

似ているようで似ていない感じですが、両者の芥川賞受賞作品を読んでみると、意外な共通点が浮かび上がってきます。表面的には全く異なる印象を与える作品ではありますが。

吉行氏の驟雨の背景となっているのは、赤線地帯です。わたくしも赤線地帯などは実際に経験したこともありませんが、戦後のある時期まで、売春は政府公認でした。売春が公然と行われる地帯がありまして、それが赤線地帯です。ある鬱屈した思いを抱いている男と、売春婦との付き合いの話。単なるセックス上の付き合いであったものが、次第に一種の恋愛関係に変化していくその様を描いたものです。

大江氏の奇妙な仕事の場合はどうでしょうか。背景となるのは大学の付属病院。外国人からのクレームで大学が実験用として飼育していた沢山の犬を処分(殺す)ことになりました。その仕事のアルバイトとして働くことになった学生(僕)の顛末の話です。

共通点はないように思えますが、わたくしが共通しているなと感じたことは、2つの作品とも架空話であることです。このように書けば、反論する人も多いでしょう。私小説など特殊なものを除けば、小説はほとんどが架空の物語であり、特にそこに共通点を見いだすのはおかしいのでは。このような意見です。

この2つの作品だけであれば、そのような反論意見も間違いではありません。わたくしが興味があるのは、両氏のその後の小説の取り組み方です。最初に書きましたように、違いが目立ってくる過程です。

吉行氏が本格的な作家活動開始後の小説を読んだ人ならば、この驟雨は氏の経験を題材にして書いたと思うでしょう。事実は異なります。氏がこの小説を書いた時点では、赤線地帯あたりにはいった経験はあるようですが、実際に売春婦を買った(死語)経験は全くないとのことです。先にも書きましたように、全くの想像上の小説なわけです。

興味深いのは、この小説を書いた後の氏は、このような男女関係(一般的な恋愛ではないもの)にのめり込むようになります。実生活としてです。そして実生活そのままでないにしても、その後の長編小説では、実生活を反映したものとなります。砂の上の植物群、暗室、夕暮れまで、などです。生活と小説表現がある種同心円的なものとなったわけです。

大江氏の芥川賞受賞後の活動は、どのようなものでしたでしょうか。その時代には、こちらは本の子供でしたので、実感としてはわかりませんが、時代の雰囲気を反映したトレンド小説として読まれたのではないのか。今では信じられない話ではありますが、石原慎太郎などとグループを組んでいたくらいですから。

面白いといっては語弊がありますが、小説家の運命が小説を書くことにより変化するのを端的に表しているのが、大江氏の場合でしょう。脳に障害のある子供の誕生です。この経験に関して氏は短編と長編の2つの小説を書き上げています。短編の方では、まだ氏のこれまでの小説づくりの路線が生きています。気の利いたお話です。しかし、この現実はこのような小説を書くことで乗り切れるはずもなく、氏の小説世界が大きく変わるきっかけともなりました。

吉行氏の小説世界の展開が、生活との同心円的なものだとすると、大江氏の場合は、生活と小説世界が楕円的な展開となっていると、わたくしは思います。つまりは、実生活のことを素材とするのだが、出来上がった小説には多くのフィクションが混じりあって、複雑な世界を表現しているわけです。このことは大江氏の最後の小説とされている「晩年定義集」でも同じ展開を見せています。

吉行氏は70歳でなくなってしまうことになりますが、氏の最後の長編小説である「夕暮れまで」はその死の15年前ほどに書かれたものです。わたくしが最初に読んだ時には、晩年の作品だと思っていたので、この事実を知った時は随分と驚きでした。吉行氏ほどの創作力があるならば、まだまだ沢山の長編小説が書けるはずなのに。残念に思いました。大江氏の場合は、なんども最後の小説などと言いながらも、多くの長編小説を書き上げたのに。

ここで唐突ながらも、過労死のことが頭に浮かびました。過労死についてはもっぱら肉体的な疲労面が取り上げられています。随分と辛い中で死んでいったと思うとお気の毒としか言えませんが、疲労面だけが原因ではないのではないのでは。長時間労働を強制されて、まさに生活と仕事が同心円になってしまったこと。吉行氏が長編小説が書けなくなったのも、同じ構図なのではないでしょうか。

何も大江氏が吉行氏より優れた作家だというつもりはありませんが、わたくしたちの実生活を考えた場合は、大江氏的な中心が二つある楕円的な世界をわたくしたちは目指すべきなのでは。では楕円的な生活とは具体的にはどのような姿になるのでしょうか。また別の記事で展開したいと今は考えています。

(Visited 15 times, 1 visits today)