令和の万葉秀歌5選

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平成も終わり、令和の時代が始まります。万葉集を国書と呼ぶには違和感はありますが、万葉集を原典としたことは、日本の歴史を振り返るよい機会になると思います。わたくし自身としても万葉集が頭に浮かんだのは、高校の古文の授業以来で、数十年ぶりとなります。そこで改めて、自分として好きな万葉集の歌を選び、日本古代へ旅してみたいと思います。

万葉集で意外と知られていないのは、第一番目の歌です。まあそれも当然と言えば当然であり、私たちが今理解している和歌ではないからです。後で説明もしたいと考えていますが、万葉集とはその後の古今和歌集などと異なり、短歌(和歌)だけで構成されているわけではないからです。基本的な構成は以下となっています。

・題詞:歌のタイトル
・序:歌の背景(漢文)
・長歌:六句以上からなる歌
・反歌:長歌を受けての歌、現在わたしたちが理解している和歌

和歌の別名は短歌ですが、なぜ短歌と言えば、それが長歌とついになるからです。また令和の原典とされているのは序の部分であり、それは漢文なのです。歌の部分に関しては、これは万葉仮名で表記されており、全部漢字ですけれども、漢字の読みだけを利用したものとなります。

さて最初の歌です。これは短歌ではありません。

籠もよ み籠持ち 
堀串もよ み堀串持ち 
この岡に 菜摘ます子 
家聞かな 告らさね 
そらみつ 大和の国は 
おしなべて 我れこそ居れ 
しきなべて 我れこそ座せ 
我れこそば 告らめ 
家をも名をも 

万葉集の成立は、8世紀の中頃だとされています。面白いのは、この歌の作者である雄略天皇は130年前の人だということです。万葉集の歌は大概は同時代のものですが、この歌だけが例外です。何故なのか。万葉集には色々な謎があって、それを探るのも楽しみの一つ。求婚の歌だとされていますが、メインとなるのは、自分自慢。この国を支配しているのはこの自分だと主張しています。

万葉集の特色としては、色々な立場の人たちの歌が集められていることとされています。わたくしとしてはもう一つの特色に惹かれます。それは万葉集と時代の変化の関係です。古代から中世への変化です。最初の歌を取り上げたので、当然のことながら、お終いの歌も取り上げておきたいと思います。

新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事

4516番目の歌。万葉集最後の歌であり、万葉集編纂に参加した一人である大伴家持の作です。歌われた時は、西暦789年で年号でいうと天平宝字3年となります。本サイトの以前の記事でも書いたことですが、大伴氏は古代から有力豪族でしたが、政争に巻き込まれて次第にその勢力を失っていきます。そして次の時代である平安時代となると、歴史から消えてしまう運命となります。古代豪族の没落とはそのまま天皇の権威の衰退でもあります。この歌が歌われた後の794年に都は京都に移ることに。わずか5年後であり、貴族政治の平安時代が始まることになるわけです。

随分と前置きが長くなったようです。本記事の主題である万葉秀歌10選に話を始めたいと思います。まさに私家版であり、自分勝手な選択であることは、あらかじめご了承願います。

1:東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
柿本人麻呂:万葉集48番
高校の古文の授業でこの歌を最初に目にした時、これほど雄大に自然を表現できる詩があるのかと、その驚きの気持ちを今でもはっきり覚えています。今回は掲載しませんが、長歌と反歌の組み合わせで読むと、この歌の素晴らしさが尚一層実感できると思います。
時は降って江戸時代。「菜の花や月は東に日は西に」。与謝蕪村の一句ですが、時空を超えたつながりを感じるのは、わたくしだけではないでしょう。この歌の作者である柿本人麻呂にも興味がありますが、話が長くなるので、また別の機会に。

2:うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば
大伴家持:万葉集4292番
わたしにとっての万葉集の魅力はその変化です。特に登場する人々の心持ちの変化。柿本人麻呂の歌は、あくまでも外の世界を素直に表現したものです。この家持の歌となると、複雑なものとなってきます。外の世界を歌いながら、それがそのまま自分の心に反映してきます。西洋音楽史で言えば、古典派からロマン派への変遷。心の動きが細かい旋律で表現されるように。

3:我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我れ立ち濡れし
大伯皇女:万葉集105番
予備知識もなくこの歌を読めば、恋人との別れを詠ったものと思うでしょうが、この歌の背景には悲劇が実は潜んでいるのです。
誰がどのような意図で行なっているのかはわかりませんが、最近、某女性週刊誌を中心として盛んに皇室批判を展開しています。御茶ノ水女子大学構内への不審者の侵入も、バカな人間がこのような記事を真に受けての犯行。古代にもこのような女性週刊誌的な人間がいるもので、讒言により皇族の一人が自害しました。大津皇子です。
大伯皇女(大来皇女)は大津皇子の姉であり伊勢斎宮です。死を覚悟して大和に戻っていく弟を見送った際の歌が、これです。

4:あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
額田王:万葉集20番
説明の必要もないような誰でもが知ってる万葉集を代表する歌です。まあ恋にも色々あって、最後は別れたりあるいは結婚となっても最初の恋心は失われたりなど。でもどんな恋でも最初の時期はいつも心がときめいているものです。この歌が有名だとしたら、そんな恋の一瞬を捉えているから。
額田王の歌は万葉集にも多いのですが、どのような女性だったのかは、あまりわかっていません。天武天皇の妃だったというのが一般的な理解です。ただしこの歌に歌われている君とは誰かについては諸説があり、天武天皇の兄である天智天皇という説もあります。人目を避けている印象もあるので、それが真実かもしれませんが。

5:ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く
山部赤人:万葉集925番
山部赤人と言えば、「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」が有名ですが、わたしとしてはこちらを選びました。後世の歌人達からは評価が特に高い赤人ですが、みなさんとしてはどうでしょうか。
先に柿本人麻呂については雄大な自然を描いた、と書きました。ただし単に自然を描いたのではなく、長歌と一緒に読むとよくわかるように、天皇の偉大さを同時に歌い上げるためのものでもあります。赤人のこの歌も天皇の行幸に付き添った時の歌とされており、場面的には同じものです。ただし赤人の歌では、そのような気負いもなく、淡々と情景を描いたものです。俳句などでは直接的な感情表現は避けるべきものとされています。自然を自然のままで愛でる心。わたしたち現代人にも通じる表現がすでに万葉の時代にあったということは、驚きです。

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