吉行淳之介のクレー論を読む

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小説家の多くは、意外と絵画論的な話を展開しています。そしてやはり作ることのエキスパートらしく、とても興味深いものでもあります。吉行淳之介氏もそんな小説家の一人。氏の小説からは想像するのは難しいですが、本格的なクレー論を展開しています。今回は、氏のクレー論について考えてみたいと思います。

氏のクレー論に私が注目したのは、氏とクレーとの奇妙な組み合わせからです。吉之氏は男女の性をメインのテーマとして小説世界を展開してきました。一方のクレーの絵にはそのような生々しさを感じません。そんな吉之氏がなぜクレーの絵に惹かれるのか、私には大いなる疑問でした。また別の興味もありました。それは吉之氏自身の小説の発想として、クレーの絵画を活用していることです。具体的には、小説である砂の上の植物群。さらに興味深いのは、単に発想の源になっただけでなく、小説中に作者のクレーに対しての思いも差し込まれていることです。正直のところ、私にはその差し込み効果は感じられませんが、吉之氏のクレーに対しての思いの深さを感じるものです。

氏はではクレーのどこに惹かれているのでしょうか。孫引き的な引用となりますが、氏がクレーの発言を引用している部分をここに書き写してみます。

ーーーーー引用
芸術家は、眼に見えるものを超えなければならない。その超越作用を自己の内面でおこなってから、この作用を自己の内に埋めなければならない。眼に見える世界は、芸術家にとっては、見えるというその性質の中だけで汲みつくされはしない。さらに進んでイメージに達しなければならない。芸術家は(いわゆる)現実を超えて、現実を溶解し、それによって内的リアリティを、眼にみえるものにしようとする。
ーーーーー以上引用

吉之氏のエッセイなどを読んだ人は、どこかで同じような文章を読んだ気がするかもしれない。多分、クレーの文章を読んだ以前の発言。雑誌の編集者をやっていた時を回想しての文章だと思います。正確な文面は忘れてしまいましたが、経験したことが、オリのように体に蓄積するようになると、年に1、2作の小説を書いていた。このような文章です。経験したことあるいは眼に見えたことを、その時にそのまま表現するのではなく、内的リアリティに変換して(これには時間が必要)表現する。

先に書いた砂の上の植物群に関しても興味深い発言があります。実際にその絵を鎌倉の美術館で観た印象です。これも引用とさせていただきます。

ーーーーー以下引用
大小不揃いで色とりどりの四角形ででき上がっている水彩画がある。その色彩は、原色でもないし、暗鬱な色でもない。赤青黄の中間色、萌黄色、薄むらさき色の四角で、半透明のあたたかい色である。
それぞれの四角形は、大小の差があるが整然と並んでいる。お互いに押合ったり、場所を取合ったり、隣接の四角に攻め込もうと隙を窺ってはいない。そして、自分の領分である四角形から、白く半透明の細い糸を下へ下へと伸ばしている。四角形の底面に、その糸は沢山の白滝こんにゃくのようにぶら下がり、伸びてゆく。砂地の植物の根が、石英の微細な粒のあいだを、隙間を這いながら白く細く伸びてゆくようでもある。
色彩は、やや濁った暖かい色だが、絵全体は透明で、希薄になってゆく空気の中に佇んでいる印象がある。
ーーーーー以上引用

この文章を読んでから、私も早速ネット上でクレーの砂の上の植物群を調べて観た訳ですが、どうしても氏が言っているところの細い糸を見つけることはできませんでした。この文書が発表された当時にもこのような批判があったようです。そこで改めて氏は、この文章の真意的なものを語っているのですが、その趣旨は、「私の言いたかったのは、一見淡い絵だが、じつは強靭なところがあるのを見落としては困る」となっています。

私としては、氏に客観的な美術評論を求めているわけでもなく、正直なところは、この言い訳めいた発言はどうでも良いことではあります。むしろ私が興味があるのは、少なくとも私には見えないその糸を発見している氏の心持ちです。ある意味幻影とも言える像を氏が見たのでしょうか。

物理的な説明を加えることは可能です。描かれているという言葉に惑わされて、クレーの筆跡を追うことで、糸は見えなくなります。糸のようにみえるのは、まさに紙自体の文様パターンです。薄い絵の具を置くことで、この文様パターンが目立って糸のようにみえるわけです。

それにしても印象は薄く、糸的な画像だと思うには、氏の側からの強烈とも言える意思が必要とされるのではないでしょうか。その意図とは何か。その謎解きも含めた楽しみが、氏のクレー論であると言っても良いでしょう。

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