イシグロ氏のノーベル賞受賞記念講演を読む

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川端康成氏のノーベル文学賞受賞記念講演を読んだことがあります。また当サイトの記事としても書きました。その後氏が自殺してしまったからではありませんが、川端氏はこのノーベル文学賞を受賞したことが、それほど嬉しくはなかったのではないか。そんな感じを受けました。或いはすでに小説に対しての興味を失っていたのか。多くの人を登場させ日本文化を語っているこの講演記録ですが、川端氏本人の小説作品については、本の2、3言で済ましているから。

時には名文とされている川端氏の講演記録ですが、私にはとても寂しいものです。その記憶が強かったのか、図書館でたまたま目にしたイシグロ氏のノーベル文学賞受賞記念講演ですが、手にすることはありませんでした。

次に図書館に行った時、やはり気になるのか、先に本があった書架をのぞいてみると、貸し出されないでそこにありました。思い込みで貴重なチャンスを逃したことのある私なので、これも何かの縁と思い借りて読んだわけです。

イシグロ氏には失礼な言い方かもしれませんが、予想以上に優れた講演記録です。特に私にとって興味深いところは、氏の創作のプロセスが具体的にわかりやすく説明されているところです。どのようなことなのか。今回は氏の創作プロセスについて考えてみたいと思います。

乱暴にまとめるとイシグロ氏の小説の特徴は、架空であることです。このようなことを書けば、小説通の人からは笑いものとなるでしょう。小説とは本来的に架空のものであると。小説家の生活を描いたとされる私小説にしても、とうの小説家の暮らしを私たちは知らないのだから、私小説さえも架空のものである。確かにそうですが、私がここで言いたいのは、小説を書く方の立場からです。

私は小説家ではありませんが、画家としての経験を少しお話しさせていただきます。私が描く絵には2つの種類があります。一つが現実の風景などを主題としたもの。もう一つは、抽象画です。そしてこの2つの絵画では、創造のプロセスが随分と違うものなのです。

私小説の場合は描く対象がはっきりしているので、これは具象画に相当するものです。架空の物語、小説はこれは抽象画です。現実物から発想する場合もありますが、大抵の抽象画は、画家或いは作家の頭の中から直接的に生み出されます。

抽象的表現の難しいところは、リアルな感覚や感情を伝えなければならないことです。そうでなければ単なるデタラメな表現になってしまうから。小説でも同じことであり、架空の物語だとしても、そこで表現されているものは、リアルである必要があります。

イシグロ氏のノーベル文学賞受賞記念講演が面白いのは、そのあたりの事情について語っていることです。これは作者でなければ書けないことであり、何事かを表現したい人々にも有益な話なのです。どのようなことか。引用が長くなりますが、大事なところですので、講演記録から該当する箇所を抜き出してみます。

ーーーーー以下引用

それ以上に、1つのエピソードを次のエピソードへつなげていくプルーストのやり方に身震いするほど興奮したからだと思います。この作品では、出来事や場面の流れが通常の時間の流れに従っていません。直線的な話の筋にも従っていません。そうではなくて、いわば連想の脱線や記憶の気まぐれが推進力となって、話を次から次へとつないでいきます。ときどき、はてなと考え込まされることがあります。あの瞬間とこの瞬間は一見無関係と思えるのに、なぜ語り手の心の中では隣り合うように存在しているのだろうか……。突然、目のまえに、私の2冊目の小説の取り組み方が開けてきました。これまでより自由で、胸躍るような方法です。この方法なら本の各ページを豊かにし、スクリーンでは捉えようのない内的な動きを読者に示せるのではないか。もし、語り手の思考の流れや記憶の漂流に従って話を展開していけるなら、ちょうど抽象画家がキャンバス上に形や色を配置していくように文章を書けるのではないか。

ーーーーー以上引用

上記引用文の中で言われている2冊目の小説とは、「浮世の画家」であり、私の好きな小説の一つです。この小説を読みながら不思議な感じがするのは、何がこうも面白く感じられるのかでした。話の筋としては、ごく単純なもの。娘の見合い話にやきもきする老画家の話です。戦時中の自分の行動が、見合い話がうまく行かない原因ではないか、そんなことを思いながら昔の回想をしたり或いは現実に戦時中に仲違いした弟子を訪問するなどの行動をとります。

人間的に魅力のある人物とは言えない老画家ではありまた架空の人物ですが、小説を読み進めるうちに、確かにこのような人物が存在する感じが強くしてきます。実在の人物よりもその印象はさらに強烈だと言っても良いでしょう。

私の最近の関心事は、発想力というものです。何か新しいものを考えつく力です。自分でも考えまた参考図書的な本も多数読んでいるところですが、イシグロ氏のように実際に何かを作り上げている人の発言は、思った以上に少ない。まあ概略的な話は多いのですが。今回取り上げた話は記念講演でのほんの一部であり、他にも色々と参考になる話が展開されています。できれば多くの人に読んでもらいたいところです。

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