吉川英治の時代小説論

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ノーベル文学賞受賞者であるIshiguro氏の出世作(古臭い言葉ですが)は、間違いなく「浮世の画家」だと思います。戦前、戦中にかけて活躍し、戦後は引退した画家の話です。実在の人間を扱ったものではありませんが、そのリアルさの感じで、この本を読みながら頭に浮かんでくる人物がいました。それが吉川英治氏です。このような言葉があるかどうかはわかりませんが、日本を代表する時代小説家です。

すでに亡くなられてから相当な月日が経っていますので、知らない人も多いかもしれません。しかし歴史上の人物に対しての私たちの見方は、実は氏が作り上げたものが多いのです。例えば、宮本武蔵。単なる剣豪ではなく、剣の道を通じて独自の精神世界を築いた。氏が朝日新聞の連載小説で作り上げた宮本武蔵像であり、今では当たり前の武蔵像となっています。

何故「浮世の画家」から吉川英治氏を私は思い起こしたのでしょうか。それは小説の主人公と吉川氏の生涯が通じているように感じたからです。架空の人物ではありますが、小説が物語っているのは、その主人公の戦前、戦中そして戦後の生き方です。吉川氏もちょうど同じ年代で活躍してきた小説家。さらに共通点があると思うのは、戦争責任です。

小説の主人公である老いた画家は、戦後の急速な社会変化に取り残されている。特に気に病んでいるのは、娘の見合いが理由も明らかにならないまま、破談となったことである。戦時中の自分の行動(戦争を賛美する絵を描いた)がその原因ではないかと、戦時中仲違いして現在は活躍している弟子達を訪問して、とりなしなどを依頼する。そのような具合に小説の話が進行していきます。

戦前からの人気作家であった吉川英治氏も、軍部に協力する形で中国での状況を伝える従軍作家となったり、あるいは新聞社主催の講演会で時局演説的なことを行なっていました。戦争が終わってからしばらくは、自ら表舞台に出ることを拒んでいました。老いた画家と同じような立場だった訳です。

ただ今回の記事で吉川英治氏を取り上げてみたいと思ったのは、戦争責任に関する話ではありません。氏は多くの小説を書き上げると同時に、活発な発言を行なっています。それらの発言の中で、私が特に興味があるのは、時代小説とは何かについて語っていることです。

私ごとではありますが、もう20年ほど中断していた小説読みを、去年2018年の春頃にちょっとしたきっかけで再開しました。その時以来、暇があった学生時代以上に多くの小説を読んでいます。そして思ったのは、小説を読むことの意味は何かということです。単なる時間の無駄ではないか。常にこのような思いが浮かんでくる訳です。吉川英治氏の本を読み始めたきっかけは、先に書いたように、浮世の画家がきっかけです。そして色々と読み進めていくと、氏が時代小説について書いてあることがわかりました。そこで、日頃思っていた疑問(小説を読むことの意味)もあるもので、氏の時代小説論に興味を持った訳です。

小説ではなく何故時代小説論なのか。このような疑問を持つ人も多いことでしょう。本来ならばこの疑問に答えてから吉川英治の時代小説論を語るべきでしょう。それはそれとして、今回は、まずはそれほど知られてはいないであろう、氏の時代小説論について語りたいと思います。

純文学という言葉があります。今でも一般的に使われているのかどうか。奇妙な言葉であり、他との比較でのみその意味を読み解くことになります。その他の比較とは、こちらは大衆娯楽小説です。具体的には推理小説であったり、今回話題にしている時代小説などです。純文学とは、多くの人(大衆)が読むべきものではなく、また楽しみのために読むものではない、ということになります。

つまりのところは時代小説とは二流の小説である、これが純文学をかざす人たちの本心なのです。吉川英治氏は長年の小説家としての活躍により、文化勲章を受けました。一般的には、文化勲章=日本芸術院会員ということですが、何故かしら、氏は芸術院会員になることはありませんでした。時代小説は芸術ではない、ということなのでしょう。吉川英治氏の時代小説論は、文芸評論家などとは違ったものです。上記のような無言の差別にあってきた人が発する熱い気持ちの反映です。ですから、面白い訳です。

具体的に氏の時代小説論を検討していきましょう。
★色々な時に氏は発言していますが、興味深いので特に戦時中の発言を中心とします。

■歴史と歴史学問について
時代小説とは過去の時代、歴史をその題材とするものです。したがって、歴史に対しての明確な考えがなければ、時代小説もかけないことになります。では氏は歴史というものをどのように捉えているのでしょうか。少し長くなりますが、その部分を引用します。*旧字は新字に変更しています。

ーーーー以下引用

歴史というものが。ただ史実の連鎖、過去の記録に止まるだけのものであったならば、その価値は半減するのじゃないかと思う。私たちの今日の生活意識の中に生き、明日に働きかけるところに歴史の不滅性がなければならぬと思う。歴史家のみでは完全にその使命を果たすことはできないのである。何故ならば、いわゆる厳正なる歴史学問としての歴史は、その学問に忠実のあまり、文献とか、史実とかいうものの範囲をどうしても出ることが出来ないのである。

ーーーー以上引用

最近ネット上では原発問題に関して、感情論はやめようよなどの発言が活発に発信されているようです。吉川英治氏の話を読んでいて面白いと思うのは、随分昔の発言ですが、そのまま今の状況に当てはまることです。感情論云々と発言しているのは、歴史家と同じような原子力専門家。まさにその学問に忠実なあまり自分の範疇に閉じこもっているだけの人たちです。

ーーーー以下引用

ところが作家であると、たとへ史実はなくとも、自己の想像力を入れ得るのである。

ーーーー以上引用

原発感情論にたつ者としては、まさに願ったりの発言であるかもしれません。つまりのところは、現実的な根拠もなく、自分たちの感情だけで発言しているのが、大方の原発反対の人間ではないか。しかし現実現実あるいは客観客観と発言してる根拠とはどのようなものなのでしょうか。

ーーーー以下引用

歴史というものは何時の世にあっても勝利を得たもの、或いは勝利を得たものの命令によって書いているのであるため、実相は掴めない。

ーーーー以上引用

まさに現在の国営放送そのものですね。ベトナムでこの前行われた米朝首脳会談。階段そのものについては、私として何も語ることはありません。そもそも何を目的としての会談かがわからないから。それよりももっと面白いと思ったのは、この会議に全然関係ないような国営放送のabe番記者的な人間が登場していたからです。拉致問題があたかもこの会談の主な目的でもあるような感じ。私としては大いに違和感を持つと同時に、ここでも吉川英治氏の考えに大いに同調するものでもあります。

さて、この後も別の論点から氏の時代小説に関しての話が続きます。興味深い話ではありますが、本記事も相当長くなっていますので、このことは次の記事で扱うことにします。

それにしても面白いのは、それほど時代の考えは変化していないこと。新しいことがそのままより真実を伝えてはいないことがわかります。無理なことは承知ですが、吉川英治氏はもちろんのことで、藤沢周平氏などの今に対しての考えも聞いてみたいものです。

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