3.11後の小説を読む

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東日本大震災は単なる地震、津波による天災ではありません。原発事故という人災が加わり、これまでこの国が経験したことのない大災害です。特に問題が大きいのは、この大震災の影響がこれから100年も続くかもしれないこと。そしてその影響の本当のところは、誰にも予想がつかないことです。今現在も拡散し続けている放射能の身体的頭脳的な影響。

作家である大江健三郎氏の受け売り。作家には人間的な特殊能力、例えば予知能力がある訳ではありませんが、小説作品は時として未来を予見できると。これは私の勝手な推論。三島由紀夫氏は小説の最後の一行が決まってから、小説を書き始めたそうですが、多くの作家は、そのエッセイなどを読んでみると、どうもそういうことではなくて、ちょっとした発想を出発点として、書きながら考えてその小説を発展させていくとのことです。この作業の経過中に、作家は時代の精神的なものを吸い込んで、それが小説に反映する。結局のところその時代精神が次の時代を作る訳であり、結果として、小説が次の時代を予見することが起こる。こんなプロセスではないでしょうか。

最近、3.11から発想を得た2つの小説を読みました。震災関連の小説を狙って読んだというよりも、私のいくつかある関心事がたまたま、2つの小説をよびよせた訳です。その2つの小説とは、多和田葉子氏の「献灯使」、大江健三郎氏の「晩年様式集」です。これも多分偶然なのでしょうが、2つとも耳慣れない漢字のタイトル。最近では珍しいものです。今回はこの2つの小説について、自分なりに思ったことを書いてみようと思います。先に書いた予言的なテーマが絡んで来ることを期待していますが、それはどうなるかはわかりません。

■献灯使:多和田葉子→講談社発行

カップ麺の色々な銘柄は知っているのだが、実際に食べて味わったことのあるカップ麺は少ない。これが私の知識の基本です。多和田葉子氏をカップ麺と比較するのもどうかとは思いますが、同様で、名前は知っているが実際の小説作品は読んだことがない。そのような存在でした。

では氏の作品を読むきっかけとなったのはどのようなものなのか。いかにもまたこれが私らしい話なのですが、テレビニュースか何かで、氏の作品である「献灯使」が全米図書賞を受賞したと知ったからです。全米図書賞がどのようなものかも知らないで、まあそのような賞を受賞したからには価値がある本だと思い、購入して見た訳です。

ですから、読み始めるまでは、この本が3.11とその後の原発事故を発想の源とした本だとはわかりませんでした。まあこれがいつもの自分流の本の読み方なのですが。

放射能制御が不可能となっている福島原発事故後の、近未来あるいは遠未来の日本の姿を描いたのが、この「献灯使」です。聞き慣れない言葉、タイトルですが、この言葉の意味が徐々にわかって来るのが、この小説を読む一つの楽しみです。ですから、本記事で明らかにすることはありません。

この本を読みながら、ずっと考えていた問題があります。そしてその問題は今もって解決もしないで私の頭の中を漂っています。その問題とは小説を読むことにどのような価値(意味)があるか、ということです。

小説は読んで楽しければあるいは面白ければそれでよい。そのような意見があることはわかるし、また理解もできます。小説は実用書でもないしましてや政治的なプロパガンダでもない訳ですので、何かしら実利的な効果(価値)を望む方が間違っているのだと。

ここに事実として福島原発事故があり、またその実態を伝える情報もたくさんあります。一方で献灯使のようなある意味小説家の自由気ままな想像物があります。このような状況では、単に面白かったではすまないようなことがあると、私は思う訳です。

すでに年中行事化したのか、この前も3.11関連の報道をテレビなどが行なっていました。すでに8年が経過したということです。この8年で私たちが学んだことは何か。それは客観的な情報などはないことです。それぞれの事実を伝える言葉には嘘はないかもしれません。しかしそれら事実を報道する順番は。あるいはそれぞれの事実の報道に費やす時間は。全て隠された意図により操作されているものなのです。すでに放射能拡散が終わったように、立ち入り禁止地区の解除情報を長々と報道する。しかし解除の根拠となるもっとも重要な数値は発表もされない。報道するのは、報道したくないことを隠すため。少なくとも私がこの震災からえた貴重な考え方です。

この献灯使が全米図書賞を受賞したことも、私はこの本を考えるうえでの重要ポイントだと思っています。普通ならば、文学に限らないでなんでも外国の賞を受賞すると、たとえその賞が有名でなくても課題に報道するのが、この国のしきたりのようなもの。今回の受賞に関しては、それにしては小さすぎる扱い。何故?。ここで思い起こすのは、外国の有名な映画祭の最高賞を受賞した、ある映画作品に対しての、この国のある種の意見です。何も日本の恥を外国まで広げる必要があるのかどうか。そんな意見です。福島の原発事故を思い起こさせるこの小説はまさに日本の恥を描いたものとして受け取っている人が多いことの例証かもしれません。

もちろん小説としての質の高さが受賞の主な理由でしょうが、ある小説が受賞するのは、そればかりが理由ではありません。時流が大きく影響するのはもちろんのこと。そしてその時流とは、外の国からは福島の原発事故に関して、大きな疑念があることです。

大量に出ている放射能汚染水は、近い将来必ず海に流してしまうのではないかという疑念。あるいはすでに黙って流しているのではないかという疑念です。疑念は何も現政府だけに向けられたものではありません。日本という国に住んでいる人たちが、この福島原発事故に対してどのように感じそして考えているかです。日本産の魚介類の輸入を禁止した国に対して、どのような反応があったのか。ひたすら風評だとばかり主張して、自分たちの利益だけを考えている人たち。確かに海水に拡散される放射能の量は少ないように思えるかもしれません。しかし食物連鎖を考えてみれば、そのような量が意味をなさないことは明らかです。プランクトンから始まって、最終的に私たちが口にする魚介類は、その濃度があるいは何千倍になる可能性もあります。それら魚介類に対して、人が警戒するのはむしろ当然なこと。

この献灯使という小説は、何も日本の恥を世界に広めている訳ではありません。むしろ、健全な批判精神がちゃんと存在していることの証明なのでもあります。まあ著者を日本人として一括りできるのかどうかは、難しいところですが。

私がこの小説献灯使を評価するには、また別の理由があります。それは、分裂した日本という考え方です。何もここで私の自慢話を展開するつもりはありませんが、実のところこのことは随分前から私の頭の中にもあったことです。確かに制度的にこのような体制が実現している訳ではありませんが、それぞれの人々の精神的なところでは、すでにこの動きは開始されていると考えています。もう利害関係をはじめとして、修復できない亀裂が生じていることは確かです。

とりとめのない話とはなりました。さて次の小説である晩年様式集の話もしてみたいのですが、話が随分と長くなってしまいました。後半部分ということで、また別の記事でこちらの小説については語ってみたいと思います。

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