大江健三郎賞8年の軌跡

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「大江健三郎賞8年の軌跡」の表紙にはこの賞を受賞した8人の作家、評論家の名前が記載されています。これらの人の名前を見たとき、急に以前いったことのある赤羽のカラオケスナックを思い出しました。文芸関連の本からカラオケスナックを思い起こすのも変な話ですが、実はそれほど変な話でもないわけです。

会合の場所に行く際に友人が目をつけていたお店に、帰りに寄ることになりました。いつもの友人らしく、みすぼらしい感じのお店です。入ってびっくりしたのは、お店が満杯であること。そしてお客さんのほとんどが後期高齢者の方々だと言うことです。随分と遅い時間でしたが。話したいことはこのことではなく、それらの人々が歌っていた歌のこと。多くの歌が歌われたのですが、全くそれらの歌をこれまで聞いたことがなかった。これは実に驚きであると同時に、私たち自身も同じようなものかと思いました。つまり、側からすれば、自分たちの歌っている歌もほとんどの人が知らないということ。

思ってみると、歌ばかりではなく他の分野でも同じことです。例えば小説にしたって、いつの間にか読む本の年代が限られてしまっているのです。自分にとって新しい作家とは、せいぜい吉本ばななぐらいまでです。これもびっくりしたことなのですが、彼女のヒット作である「キッチン」は平成のはじめに登場したとのこと。つまりはこの30年間、私にとって新しい作家は登場してきていないわけです。

最近、大江健三郎氏の本をよく読んでいます。この「大江健三郎賞8年の軌跡」を手にしたのもそのつながりですが、深いところでは、あの赤羽の経験があったと思います。つまりは、思った以上に変化していない自分に対して、ある種の危機感を覚えた、です。

この本について具体的に語って行く前に、そもそも大江健三郎賞とはどのようなものかを説明しておきます。

作家の個人名を冠した文学賞は多数あります。代表的なところでは、芥川賞です。この大江健三郎賞は、そのような文学賞とは随分と違うものです。その特色は、

・期間限定であること
・選考員会でなく大江健三郎氏が個人で選ぶ
・賞金はないが、受賞作は海外で翻訳出版されるようにできる限り努力する

この3点が主なものです。この本の題名「8年の軌跡」が示すように、8年間限定で実施される賞であり、つまりはこの賞はすでに終了していることになります。興味深い賞なので、もう少し続けて欲しかったというのが、私の感想ではありますが。

大江氏が個人で選ぶことにはどのような意味があるのでしょうか。選考手順としては、まずは若い編集者たちによりその年に出版された注目の本が集まられます。それらの本を読んだ後に賞の作家が決まる。このようなものです。考えようによっては、この賞は氏の読書日記的なものとして解釈できると思います。先にも書きましたように、私がこの本を手に取ったのは、ある目的があったからです。その目的とは、自分の読書範囲を広げるです。ですから、その目的からすると、この本の読書案内的な特徴が、私には特に嬉しいことになるわけです。

活動としてこの賞が興味深いのは、賞金はなしですが、海外での翻訳出版を強力に後押しするとなっていることです。どのように優れた小説を書いたとしても、良い翻訳者がいなければ、それが世界に広がることはありません。また国により出版事情が異なるので、作家個人ではどうしようもないことでもあります。他の文学賞でもぜひ取り入れて欲しい活動でもあります。

さて、本の中身へ、話を移すことにしましょう。大きな構成としては、作家それぞれで以下となっています。

・選ばれた小説のイントロ部分
・大江氏による選評
・受賞作家と大江氏とによる公開対談

この本の読み方としては、ふた通りあると思います。一つはこの本で取り上げられている受賞作を読んでからこの本を読むか。あるいはこの本を読んで興味が引かれた作家の本を読む。この2つです。私の場合は後者となります。つまりは、大江健三郎賞8年の軌跡を読み終えたばかりですので、これから気に入った作家の本を読むことになります。

大江氏が小説の何について注目しているのかがわかる、大江氏による選評も読んでいて楽しいものではありますが、私としては一番楽しんだのは、公開対談のところです。

小説家は作品が全てである、そんな話をよく聞きます。確かにそうではありますが、私としては、どのような人がこの作品を作っているのかも、重要なことです。ですから、ある気になる作家が登場すると、まず最初に手にしてみるのは、あればその作家のエッセイ集的なものです。思想信条調査などというものではなく、漠然とした言葉ですが、その人の人格的なものがわかれば、それでよしとするわけです。そんな私に取って、この対談には特に引かれるわけです。

大江健三郎氏関連の書籍としては、最後の小説であるとされる「晩年様式集」を読み終えたところです。新たな小説がかかれないということはなんとも寂しいことではありますが、その意味でいうと、この8年の軌跡はのちの世代のための貴重な置き土産だといえるかもしれません。

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