エッセイを書いてみたい

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エッセイの書き方について今回はお話しようと思うのですが、別段、私がエッセイの名手であり、その書き方の秘密を皆さんにお伝えしようとするものではありません。逆にエッセイも書いたことのない私が、どのようにしたらエッセイが書けるようになるかの探索の報告記録とも呼ぶべきものかもしれません。どの位意味のある話になるかはわかりませんが、興味のある方はしばしおつきあいをお願いしたいところです。

ところでなぜエッセイを書きたいと思ったのでしょうか。エッセイストとなって名を挙げるなどは毛頭考えておりません。第一なれる能力もないことは、自分自身でもよくわかっているわけですから。簡単に言えば、当社が運営しているこのMORU55サイトに掲載したいからです。

そこでもまた疑問が湧きますね。当サイトはジャンル的にはビジネスサイトに属するものです。そんなサイトにエッセイ的な文章が必要なのでしょうか。私は必要だと思います。そのように思う根拠は、私の読書体験からきています。

私の読書、特に小説の場合は、若い時を除けば、多くの作家の本を読むというものではありません。なんらかのきっかけで興味を持った作家(少数の)の本をほとんど全部短期間に読んでしまうものです。現在活躍している作家については、全て読み終えて、次の本が出るのを待つ、そのようなものです。

興味を持った作家を読む場合に、最初に読むのが、その作家のエッセイ集的な本です。偉そうに聞こえるかもしれませんが、私にとっては一種の身上調査的なものです。

政治信条が自分と同じだとか、生活が倫理的かどうかなどは、問題にはなりません。それよりも重視しているのは、一般的に流布されている考えなどを、無批判的に語っているのかどうかです。例えば、美しい日本などといったこと。私としては、汚いとは感じていませんが、単純に美しい日本などとはまた同時に感じてはいません。第一、この言葉は暗に他の国は汚いといっているのと同じだからです。なんの根拠もない話なのです。

作家と作品とは違うものである。よく聞く言葉ですが、もちろん、小説に書かれていることがそのまま作者の実人生などとは私としても思ってもいません。しかし、誰が書いているのかは、とても重要なことだと考えているわけです。

ウェブサイトのコンテンツ記事なども同じではないでしょうか。また飲食店も同じではないでしょうか。私がチェーン店が嫌いなのは、作っている人の顔が見えないことです。このサイトの記事などは誰が作っているのか。それを表現するのが、エッセイ的な文章と考えているので、つまりはエッセイ的な文章を書きたいなと思っているわけです。

さて、前書きが随分と長くなってしまいました。本題に入りましょう。エッセイ的な書き方はどのように習得したら良いのか。その探求をレポートしてみます。

どこから手をつけてよくわからないときは、もちろん、ネット検索です。試しに「エッセイの書き方」で検索してみます。

人によりもしかしたら異なるかもしれませんが、私の場合、検索トップに表示されたのは、幻冬舎の記事でした。幻冬舎は自費出版的なビジネスも展開しているので、その関連の記事だと思います。記事内容としてはコンパクトにまとめられておりわかりやすいと思いましたが、残念ながら私が思っているようなエッセイの書き方ではありません。

私自身すでに多くの本を執筆、出版しております。小説ではなく実用書特に3Dソフトやプログラミングについての解説書です。この解説を書く場合は、幻冬舎の解説と同じような手順で作業を進めていきます。その意味では間違ってはいませんが、私が求めているのはエッセイ的な文章の書き方です。一般的な文章の書き方については、私には必要ないのです。

エッセイに関する他の記事も読んでみたのですが、基本は幻冬舎の記事と同じようなものでした。そこで方針を変えました。調べるのではなく自分で考えてみることにしたわけです。先にも書きましたように、私自身としてはエッセイ的な文章を書いた経験もないので、どのように考えて良いかもわからないのですが、とりあえずは、自分が気に入っている作家のエッセイを読んでみて、このエッセイを書くにはどのようにしたら良いのかを検討してみることにしました。何人かの作家が頭に浮かびましたが、去年の今頃全作品を読み通した藤沢周平氏のエッセイを選ぶことにしました。

藤沢周平という時代小説家については、久しい以前から知っていました。すでに書きましたように、私自身は間口が広い人間ではありませんので、氏の小説作品は読んでことがありませんでした。ところが去年の春、ちょっときっかけで氏の作品を読み始めることになりました。そして当然ながら最初に読んだのが、氏のエッセイ集的な本です。「小説の周辺」。

この本が面白かったからあるいはこのような文章を書いている藤沢周平氏の人間性に共感したからでしょう。結局は氏の書いたものは全て読んだことになるわけでしたから。ではこのエッセイ集のどこが魅力的なのでしょうか。そして私たちがもしエッセイを書くとしたら、どこを見習えば良いのでしょうか。

 「どうだん」の花、のど自慢風景、狼。このエッセイ集の最初にある話のタイトルです。もちろんいかにも小説家らしいタイトルの話もありますが、多くはこのような日常的なものです。何が言いたいのかと言えば、エッセイの主題としては何も特別なものは必要ないということです。逆に必須とも言えます。よくSNSなどで高級料理店の料理をアップしている人がいます(意外と多いです)。高級料理店を主題として、ある意味自分を高めようとする考えだと思いますが、人の注意は高級料理店の方にいってしまい。それほどの効果はありません。

のど自慢風景の概略的な話をしても、面白くはありません。今はどうだかわかりませんが昔の話なので、多くの人が実際に見てもいるわけですから。面白みが出てくるとしたら、藤沢周平氏独自の視点が語られる時です。このエッセイから氏独自の考えをいくつか拾い出してみましょう。

 ・中身は十年一日ではなく変化が激しい
・大体の歌の流行り廃りが飲み込めてくる
・ローカルなものがみるみる姿を消した
・のど自慢は世相をうつす鏡である
・歌唱力一筋の出演者がいる
・私はあるときは感動してーーおかしさに
・思いがけない美声を発したり
・その土地の顔

短すぎてよく意味が取れないかもしれませんが、私として藤沢周平氏の視点をまとめてみると、のど自慢風景を通じて社会の変化に思いをめぐらしているところや、普段と違ったところで思わぬ力を発揮している人々への温かい目。そして地方を大事に考えていた氏らしく、その地域独特の人間の顔というものへの愛着などが表現されている。

断片的に書き連ねた氏の考えや感じですが、注意して欲しいのは、これらが何も文章の結論として書かれてはいないことです。思いつくままといっては言い過ぎですが、文章のあちらこちらに配置されている言葉なのです。ここでなぜ幻冬舎のエッセイに関する記事が私にとって不満足かがわかりました。幻冬舎の記事はある結論を効果的に書くための、順序優先のものです。しかし藤沢周平氏のエッセイからわかることは、エッセイとは音楽を楽しむと同じで、読みながら楽しさを感じるもの。何も結論が重要ではないということです。

ではエッセイはどのように書けば良いのか。残念ながらこの追求は本日はここまで。さらに探っていきたいと思います。 

 

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